かとうゆうです。
今日は、気の赴くままに書いてみたいと思います。
と、、、いつもそうではありますが(汗)
ふと思いました。
「そもそも学校の”学科”ってこれでいいのか?」と。
小学生だと、国語・算数・理科・社会とか。
中学だと数学とか名前は変わりますが、エッセンスは変わらない。
とはいえ。
今、時代は大きく変化しています。
「集団・規律」から「個人・多様」へ。
そうしたものが会社でも、教育、政治、経済あらゆるものに変化を与えています。
根本は「すべての人は対等である」ということ。
「あなたはあなたらしさ全開」でいていいということ。
スキルシェアから柔軟な働き方まで、個人の最大化のためには「多様性アプローチ」が必要です。
そして覚えるスキルも2000年以前とはちがっています。
たとえば、SNSとか。
未だに公立教育では「SNS=ダメ」と禁止前提ですが、大人は普通に使っている。
「大人になれば分別があるから」
というのは、「社会的知識」としてはそうですが、「子供も大人も人として対等である」という自体を否定してはいけないですね。
なので「SNS=ダメ」ではなく、たとえば授業科目で「コミュニケーション」を設定。
自分の考えをどう表現するか?
表現するときのツールは?
他人の意見を尊重するとは?
話し合うときに大事にすることは?
話し合うときに使うSNS
ツールを使うときに気をつけること
とか。
「SNS=使い方」を学ぶ、とかですね。
プログラミング学習は授業に取り入れられつつありますけど、それも含めて「テクノロジー」という授業を設ける。
今、メタバースとか、デジタルツインとかDXいろいろありますけど。
それらを使って、実際に何かを作る・・・とか。
言語・・・というよりも、スクラッチでよいので、「システムという考え方」みたいなものを学ぶとか。
そう考えると「図工」的なものと「テクノロジー」が分断されていること自体も「ヘンだな?」と思ったりします。
木材加工からメタバース構築まで、ぜんぶ「図工」じゃない?みたいなイメージです。
あと大事なのは「生きる・自分」という視点の授業ですね。
確かに「道徳」ってあります。
これもとても大事。
でも、ちょっと古いかも、、、事例とか。
たとえば、
ジェンダーギャップについて
男性と女性の違いはどこにあるのか?ないのか?
「自分らしさ」とは?
授業って、だいたい「一方通行」
”優れている先生”という設定があって、”稚拙な生徒”という設定。
なので、「教えを承る」という前提です。
でも、「人としては対等」という大前提にたつと、先生と生徒の違いは「社会的知識があるかどうか?」くらいですね。
感情表現という表現自体はまだこなれていないかも、ですが、「感情」自体はなにも大人と変わりませんから。
赤ちゃんは「泣く」という表現しかわからないだけで、「気持ち」は同じですね。
そう考えると「優劣」を前提にして「一方通行」で教えるというのも、ちょっとヘンだな、と。
確かに内容によっては「一方通行」という”形”が適正なときもあると思います。
でも、その前提でも「対等」なので、別に先生の話を途中でさえぎって質問したって構わないと思っています。
だって「軍隊」じゃないですから。
同じ服装、同じ行動。上官命令に従う・・・なんて同じ要素を学校にも感じることがあって。
昔はやむなし、だったかも、です。
社会に排出する人材は「徴兵されてもよい」人なので。
上官から「右に行け!」といわれ、「いや、でも敵の兵力的には・・・」なんていわれたら戦闘に勝てませんから。
なので上官と部下は「優劣」、指示と従属、一方通行。
でも「戦闘」ですから。
学校は「戦闘」でも「兵隊」でもありません。
「ひとりひとりが特別」なので。
あと学問自体も「統合」がいわれてますね。
専門分化するのも大事だけど、まったく異なる専門同士が「ふれあう」ことで新しい付加価値ができる。
なので「学際的統合」
日本の大学って、世界的にはだんだん魅力というか求心力が低下しているとかっていわれたりしますが、どこかの大学は「統合」を実践して、「専門の壁」をとった、組織とかコミュニケーションを実践したようです。
そうしたら優れたアイディアがどんどんでて、学生も世界中から。
確か沖縄?・・・広島か?・・・ちょっと記憶が曖昧で大学名までパッとでてこないですけども。。
量子力学・・・なんていうのも、実は植物学とか生命、大脳とか、どんどん関わりの中から発見が生まれてます。
だとすると、「区別」は必要ですが、それを「統合」する動きも、教育に反映した方がいい気がします。
そんなこんな考えると、そもそも
国語・算数・理科・・・とかって、だいたいおおむね明治時代からの区別ですけど、「テクノロジー」とか「コミュニケーション」とか「セルフマネジメント(自分らしさ)」とか、新しい形にしたほうがいい気がすごくします。
またそれぞれの学科をまたいで考えられるような「体験」も大事ですね。
山登りとか自然観察と算数・数学・・・みたいな。
そう考えると、だんだん「あれ?かなり今の授業内容って、イケてないんじゃないか?」と思うようになっています。
別に明治時代から変わらないことがわるいとかってわけではなくて、そこにプラスされるべき、あるいは変更されるべき要素が、とても少なくて、硬直的なんじゃないか?と。
さきほど「軍隊」なんていいましたけど、「教育水準の統一」も大事ですが「多様性」も大事ですね。
オンラインとか交通機関も発達していますから、学校はある程度「多様性」があって、生徒に「選択」できるというのが、小学校からその要素があってもいいんじゃないかと思ったりします。
とはいえ、実際に「変える」となると、すごいパワーは使いますけども。
「教育者の育成」「カリキュラムの妥当性」とか、すごいたくさんのステップがある。
でも、今、明らかに時代は変化して、スピード感もあがっているので、ここは前向きに、パワフルに実行していく方がいいんだろうな、と思っています。
そして私たちにもできることありますね。
別に教員ではなくても、お子さんがいればご家庭で、こどもと接点が仕事でもプライベートでもあれば、その要素を追加していく。なにも、こどもと接点がなくても、「自分が学校時代に感じていた違和感」みたいなことをSNSでもブログでも発信する。
教育を変えるには、つまるところ議員を動かさないといけないのですが、投票もそうですけど、そもそも「候補者」としてそういう視点をもった人に出てもらうことを考えると、私たちがそれぞれの見方で「こうなったらいいんじゃないかな?」っていうのをどんどん発信する。
そんな一歩からはじめるのが、遠回りのようで、実は一番近道かも、と思っています。
それでは今日はこのへんでー!