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ゲーマーが語る|「あれ?『私』って、どこまでの範囲?」

かとうゆうです。

 

今日は「あれ?『私』って、どこまでの範囲?」という話です。

 

いきなりぶっとびますが、今、ちょこちょこやっているゲーム。

ウォッチドッグス レギオン

 

ゲーム評価としては賛否あって。

というのも、ちょっと単調というというか、主人公に没入できないとかありまして。

 

とはいえ、暇つぶし程度だし、セールだったので、ぽつぽつやってます。

 

このゲーム。

ロンドンが再現

されてます。

 

学生時代にロンドンにいって、タワーオブロンドンやらバッキンガム宮殿やらいきましたが、街ゆく人から自動車まで再現されてます。

 

ゲームっていっても、もう「リアル」に近いので、雑踏、ゴミとか、かすれた感じとか。

街の息づかいまで再現されてまして。

 

主人公に没入できないっていうのは、町ゆく人誰でも主人公にできるっていう設定なので、コロコロ変わるからですけども。

 

まったく年齢違う人、女性・・・いろいろ設定して楽しんでます。

 

そして、また話は飛びまして。

犬が「二人」おります。我が家に。

子供とあわせて「三兄弟」

 

犬の散歩にいったんです。

 

街ゆく人、、家並、、、動くもの、車、、、

わりと、ぼーっと周囲を眺めるんです。

 

で、ふと。

あれ?これ、レギオンと同じだ

という感覚が芽生えまして。

 

なんとなく、今散歩している風景も、ゲームの風景も区別がなくなったような曖昧さを感じまして。

 

次に理性が働いて。

でも、なんで『同じ』と思うんだろ?」と。

 

そう思いながら、散歩していて気づいたんです。

 

「あ。『世界として”同じ”だ』と。

 

量子力学で「観測者効果」っていうのがあります。

小さな物質の単位、量子。

これは「観測されていないとき」は、波のように動く。

なので「存在が確定していない」

 

「観測者が観測したとき」、「存在が確定」して粒子のように、つまり固体的になる。

 

そんな理論ですが、定説です。

 

物質って「存在」だと思いがちですけど、そうじゃなくて「観測したときに確定する」んです。

 

不思議といえば不思議ですが、あらゆるものは「波長・波形」ですね。

それが可視されると「色」として観測されたり、「音」として観測されたり、「感触」として認知されたりする。

 

なので今この世界っていうのも『私』という観測者がいるから「そうある」「存在する」わけです。

 

で、、、ゲームの世界は「仮想」なんていわれますけども、こういう視点に立つと、今いる世界も「仮想」なんです。

 

バーチャル。

『私』という観測者がいて、はじめて成立し、意味づけされる・・・

 

と、、、そんなこんな思いつつ、また路地をめぐって散歩をしてますと。

あ。『私』は、”私”じゃない

という感覚が芽生えました。

 

再現されたロンドン。

そこでいろいろな属性の人になるんですけど。

 

たとえば男性の私が女性になる。

ゲーム中は「女性」になっているので、誰かから「女性なんて・・・だ!」とかいわれると、ムッとしたりする。

 

でも、なんで「ムッとする」のか?と考えると。

「すでに『私の中にある』から、ですね」

 

たとえば、まったくパラダイムが異なる宇宙人に遭遇したとします。

もう人類の常識とかぶっ飛んで、全然違うパラダイム

 

こうした「遭遇」に対して、喜怒哀楽とかって感情はわきません。

ポジティブとかネガティブとかの定義づけも働きません。

 

「理解しよう」とか、そういう機能的なものが働きます。

 

なぜなら、あまりにパラダイムが違いすぎる。

それは『私』の中に存在しないから、ですね。

 

なので、ゲームで女性とか、年齢の違う男性とかになって喜怒哀楽を感じるということは、それらがぜんぶ『私』の中になるから、だと感じました。

 

で、、、ゲームの主人公。

クリエイティブできたりします。好きなアバター

 

で、そういう主人公として「設定」したものを、主人公として感情移入していく。

 

、、、と考えると、今の”私”というのも、ある意味「設定」ですね。

こういう名前。

こういう環境で育って、それに対してこういう意味付けをして。。

 

言葉を変えると、今のこの世界を、認知し、知覚し、体験するために「私」という設定、肉体をもって、それを経験しているともいえます。

 

でも、先ほどいったように『私』というのは、「設定」の範囲にとどまらない。

 

他者への共感っていう感情も、それが『私』に存在するから感じることができる。

 

スピリチュアルでも、例えば「禅」の考えもそうですけど。

この世界、すべてが『私』である

なんていわれますけども。

 

そう考えると、

の世界を「この世界」として観測している「大きな私」がいて。

その世界を体験するための、装置として、肉体をもった「フレーム設定された私」がいて。

 

つまるところ、ぜんぶ『私』

 

『大きな私』が、この世界を観測して、存在や位置を確定している。

その生み出したものを味わうために、「フレーム設定された私」というスコープを通して知覚している。

 

もし「フレーム設定された私」だけ、が「私」だとすると究極的には、他者・他物への同情とか共感も感じない。

 

今、社会は「コミュニティ不足」なんていわれてます。

 

「私」という定義を、「フレーム設定された私」だけに限定すればするほど、「内向きの愛情」になります。

 

「内向き」というのは、たとえば「家族にはあんなに優しいのに、コンビニの店員さんには上から目線で、投げつけるような態度をとる」とか、ですね。

 

どんどん「内向き」になります。

 

でも、「大きな」私。

この世界を観測している「大きな私」

 

これに近くなればなるほど、

誰に対してもフラットで、区別なく。

謙虚で、等身大。

 

よく「悟りは身近にある」なんていわれすけども。

たとえば「怒られて、ムッとしたとき」

「それは”あなたがあなたに怒っている”」とかっていわれたりします。

 

こんな現象も確かに「大きな私」として考えると成立します。

なぜならこの世界の「観測者」なので。

 

 

、、、と、まぁ、、、これが哲学的考察、、、わるくいうと妄想というんでしょうか(汗)

 

いろいろ自分で書いて、自分で突っ込みたくなるところもあったりするんですけども、「私」っていうのは、今思っている「私」という範囲じゃないんだ・・・なんて視点をちょっと持つと、また生き方とか考え方のヒントになったりするかも、、と思い、自分への備忘録として書いてみました。

 

それでは今日はこのへんでー!