かとうゆうです。
今日思い浮かんだのは「うつ病のときの考え方」です。
8年くらい前、長期休職しました。
残業とかもありましたが、結婚・育児、仕事のギャップ。
いろいろ整理不能になり。
重度ではないといわれたものの、一日中なんにもする気がなく。
本どころかメディアも。
トイレにいくのもだるい・・・そんな感じでした。
で、今振り返るとどうか?ですが。
「必要な時期」だったなと思っています。
哲学でもスピリチュアルなどでもいわれていますけども、
「うつ病は、”病気”じゃない」
え?じゃあ、一体なんなの?ですが、これはいろいろな見方はありますが、ひとつの見方は、
「次のステップへの調整期間」
だと思っています。
そのために「内向き」になる必要がある。
とことん”自分”と向き合う。
向き合うっていっても、うつ病のときはしんどいので、何か複雑なことを考える必要もなく。
”自分”と向き合うというのは、
まずは「なにをしているとき楽しいと感じるのか?」だと思います。
これも何か複雑なことではなくて、
・部屋の掃除をしてるとき
・本棚をなんとなく整理しているとき
・コミックをパラパラみているとき
・音楽、かなり優しい感じのものを聴いているとき
そんな日常生活のちょっとした場面です。
「次のステップの調整」って、「今のままでは、もう”あなたらしさ”を発揮することが難しいですよ」というプロセスの結果です。
なので「他者」との関係や評価によって起こることがあります。
・仕事で、期待されたことにうまくできない
・職場の人間関係がうまくいかない
・育児で、だんだん煮詰まってきた
これらはすべて「他者」との反応によって起きています。
なので、「そのこと自体」をなんとかしようとしても、余計に苦しくなる。
必要なのは、そうしたプロセスの中で「自分らしさ」が失われた・・・あるいは損なわれた・・・と感じている「自分」自身です。
なので、まずは「自分」
それも「こうあるべき」「こうありたい」という「他・別」ではなくて、自分の中にある楽しいと感じる気持ちを探っていくことが大事です。
とはいえ、うつ病といっても様々なケースもあり、そうしたことを考えることも難しいこともあります。
その場合は、「休養」が、自分らしさを取り戻すために必要なことだと捉えます。
なので「なにもできず休んでいる」”だけ”ではなくて、それは自分を取り戻すために必要なステップだということです。
なので、罪悪感とかまったくもつ必要はないと思います。
自分らしさを取り戻すには、「今、悩みや困難で包まれてしまっている状態」から距離をおいて、「ほっ」と一息つく必要があります。
しばらくすると、少し「楽しいとき」を感じたりするかもしれません。
少し余裕がでてきたな、と思ったら、
「私にとって、なんでうつ病という”自分と向き合う時間”が必要だったか?」を考えます。
大事なポイントは、うつ病=なにかネガティブ、あるいは人より劣っている、とはおもわず、「必要なこと」という視点です。
うつ病って、自分もそうですけど、周りも、変に気を遣うところあるかな?と感じています。
うまく表現できないけど「触れてはいけない」的な。
そうした根底にある、微妙ですがはっきりあるのは「劣っているから、うつ病になった」という”気配”みたいなものです。
でも、優しさで包もうとするから、逆に「触れてはいけない」的になる。
ちょっと極端かも、ですが
「インフルエンザになって、大変だったわー」と同じくらいの感覚でも、うつ病っていいんじゃない?と思ったりします。
なぜなら「劣っている」でもないし、「ネガティブ」というわけでもない。
次のステップに進むとき。
人によって様々な場面に遭遇します。
人の縁が結ばれて次を歩むような、「外向的」パターンもあります。
同時に「内向的」、しっかり自分をみつめるといパターンもあります。
どちらのパターンがよいのか?はそのときどき、そしてその人によって様々です。
そうした選択のひとつとして、今回は「うつ病」というアプローチを選択しただけなので、「触れてはいけない」的ななにか妙に距離感を持つのは、違うかな?と思ったりしています。
そして「次のステップ」って、だれでも起きることですね。
規模とかインパクトの大小問わず、誰でも起きます。
で、そのときはなんらかの「苦しい」を感じます。
逆に、これを感じないと「次のステップ」に思いがいかないことが多いです。
もちろん「もっと!」という気持ちで「次のステップ」を思うときもありますが、どちらにしても、人生の中で起きることです。
なので、誰にでもある「次のステップ」というタイミング。
それを考えるときに、最適なアプローチ、、、その中での「うつ病」
そう考えると、本当に「劣っている」とか「ネガティブ」とかはないですね。
それを感じるのは、「標準・デフォルト」と比較したとき。
しかも「標準・デフォルト」って、そもそも存在しないし、人間をモデル化すること自体意味がない・・・でも「人並み」みたいなところに安心感を求めるところがあって、そこと比較が発生すると、「劣っている」「ネガティブ」になります。
この「モデル・理想像」って、本当に学校から会社までずーっと適用しちゃっているので、習慣というか染みついてますけども、「ひとりひとりが特別」という視点からすると、意味はないです。
会社でも、他者評価、ランク付けをしないノーレイティング
学校でも、テストがない、偏差値もないけど、教育水準トップクラスの国
いろいろ出てきてますね。
それは「生命本来にとって、他者や他物と比較して競争させることは”不自然”」だという真理なんだろうと思っています。
なので、うつ病になっても
「なぜ自分はできないのか?」を考える必要はないと思っています。
なぜなら、それは「他者・他物」と比較して、起きる概念なので。
比較するから「できる」「できない」が登場します。
そうではなくて「自分らしさ」、その表現として「できること」「やりたい」ことだけを考える。
そのためには、何か複雑な、「転職先をみつける」とかそういうことよりも、まずは「日常生活の中で、楽しいと感じる場面は?」という視点。
余裕が出てきたら「なぜ、こうした状況を選択したのか?」を考える。
その中で「自分とはなんだったか?」を取り戻し、「なぜそれが起きたか?自分らしさがどこで失われたか?」に気づく。
そして「次のステップ」がみえてくる・・・
そんな風に感じています。
でも、これ本当に単なる「感想」です。
なぜなら、病気は様々です。うつ病などと精神系は、実親やパートナーなど様々なケースによって発生しますので
なので、参考程度、、です。
それでは今日はこのへんでー!