ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

仕事も生活も、ぜんぶ思ったまま自由に生きる人

宇宙は、「あなたの本質」を、与えてくれる。現実のあなたというフィジカル思考ではなく、本質、本当のあなたの心

かとうゆうです。

 

友人との対話トーク番組。

 

スタエフも、11本配信中です。

 

って、、、それはそれ、なんですけど。

 

収録してみて、とても実感しているのは

 

自分の中に、アウトプットしたいものがたくさんあった、、、ということです。

 

それで、、とにかく一番シェアしたいのは、

 

アセンション

 

これは、スピリチュアルの能力が高まってくる、とか

未来とか前世がわかる、、、とかではなくて。

 

それらは「手段」に過ぎない。

 

本質。

これが大事。

 

本質は、

 

ひとりひとりが宇宙と同じ無条件の愛の存在

そして宇宙の法則はシンプルで

与えたものが、返ってくる。

 

宇宙はあなたを無条件に愛しているので、

あなたが「与えたもの」「願う」ものは、完璧に返してくれる。

 

でも、宇宙は「人間社会の次元」ではない。

 

結婚したい

 

結婚、、、という制度、仕組み自体「宇宙は関知しない」

それは、人間が、自らの定義によって生んでいるシステムなので。

 

結婚したい。

でも。

 

本人が「ソウルメイトがないと、私は”欠けている”」

そこに本質があると

 

それを「与えてくれる」

 

欠けている状態を。

 

本人は、いくら引き寄せやっても、出会いもないし、なんか仕事が忙しくなってるし

「全然だめじゃん、この法則」

なんて思っているかもですが。

 

実は「私は足りない」という体験を、どんどん与えてくれる。

 

なぜなら

 

私は、今この瞬間

すべて満ちていて

足りていて

すばらしい存在

 

という本質に気づかなければ

 

結婚しようがしまいが

本当の高次のシアワセは得られない。

 

だから、宇宙は必死に

あなたに与えながら、

メッセージを送っている。

 

「足りない、、、そう思っているところが、あなたがあなたらしくシアワセになる制限を、自分でしているんだよ!」

 

だから、

引き寄せしても「全然だめ」ではなくて

 

全然出会いがないとか

むしろ仕事が忙しくなった、、、という出来事を

 

「さて、どんなメッセージなんだろう?」と視線を向けることが大事。

 

そうすると

宇宙は

「あ。メッセージ、、、という視点になった、、、」

ということで「与える」

 

あ、そっかー。

出会いがないって思ってたけど、それって「出会いがないっていう現実を、”自分”が創造したんだよね?

 

だったら、なんで、創造したんだろう??

 

そんなとき友人と話していて

 

え?あなた結婚願望ないの?

あ。しようがしまいが「関係ない」?

なるほど、、、確かにね、、、結婚=正しいってわけじゃないし、どっちにしたってシアワセになる道ってあるよねー。

 

ねぇ、ちょっとその本貸してくんない?

 

、、、、なんて、ストーリーがみえてくる。

 

なので。

本質。

 

お金がほしい・・・じゃあ、なぜ足りないという状態を創造しているの?

結婚したい・・・じゃあ、なぜできないという状態を創造しているの?

 

どんどん自分に問いかける。

 

なぜなら、

あなたの中にすべて「答え」があるから。

 

それを引き出す。

 

だから。

「自分の心」にしっかり目を向けて、対話する。

 

そうじゃなくて、対話せずに、

現実脳で思っている、結婚、、お金、、、これを求めても、「それ自体に本質はない」

 

それらの「出来事にあなたがどう意味づけしているか?」

そこに、自分で自分を制限しているところがある。

 

宇宙は完璧、完全な自由。

あなたも同じ。

 

なので。

 

今、この瞬間。

あなたが「現実」と認識しているもの

それらを「すべてあなたが創造している」と考えてみたら、さて、どう自分に問いかけますか?

 

前世がどうとか、先祖がどうとか

そういう「他律的」ではなくて、

 

ぜんぶ「自分が創造している」

 

そんな視点になると、手放せることがどんどんみえてくる。

 

、、、これを、ずーっっとシェアしたい。

 

なのでスタエフという場で、どんどん言葉が出てくる。

 

宣伝とかちょっと苦手なんだけど、それが宣伝、、、になったとしても、だからといってサイレントになることも、ちがうかも、、、、だから

 

「私は、もっとたくさんの人にシェアしたい!」

 

それが正しいとか間違っているとかではなく、

どこかの言葉、そこだけも、ヒントになれば、、もう本当にうれしいと思っています。

 

stand.fm

完璧な人にならなくていい、、、とはよくいわれますが、「完璧」っていうのが、ちょっとなーって話

かとうゆうです。

 

よく「完璧な人にならなくていい、あなたはあなたのままでいい」

 

っていわれますけど。

 

たぶん、これ

「なぐさめ」にしかならないかもって感じます。

 

つまり。

「完璧でない」

できなかったり、足りなかったりする・・・けど!「それを含めて人間だから、自分をすべて受け止めよう」的な感じですけども。

 

結局

「比較」

しているんですよね。

 

誰かか。

何かかと。

 

で。

「できない」

「足りない」

と。

 

でも、アセンションっていうのは

「比較」

これ自体が「不要」

 

そこに本質はない。

 

なぜなら

この宇宙で、あなただけが唯一の価値ある存在だから。

 

唯一の価値ある存在が、75億パターン、地球にあるわけです。

 

なので。

「比較」はいらない。

っていうか、そもそも意味がない。

 

会社でも

学校でも

社会でも

 

「比較」ですね。

 

成長のために「他人と競争する」という、意味のないことをしている。

 

優劣

上下階層

特定の言動を正常として、区別・排除し、

排除した人間を「正常」と定義したことに矯正する。

 

障がい者と健常者

男性的と女性的

優れた人とそうではない人。

病気の人、健康な人

これらは、本質的に「意味」がないものです。

 

どのような状態。

どのような属性。

どのようなものであろうとも

「すべて、あなたしかない価値あるキャラクター」です。

 

病気とかね。

仕事でよく「なんかわるい」みたいなこといいますけど。

全然そんなことはなくて。

 

病気、、、という、ただそれだけです。

でも、フルタイム=正常っていう固定観念あるから、

病気になって申し訳ない、、、と

自分で、自分に「足りない状態」としている。

 

だから、まだ「中世」だなーっていうのは、この根本が変わってないからですね。

 

で。

アセンション

「ひとりひとり価値ある」です。

 

なので。

 

そもそも「比較」いらないんですね。

 

ゼロ

1ミクロンもいらない。

 

なので。

「完璧な人」といったとき、

 

他人とか

他ぶつとか

他の状態と「比較」して「完璧じゃない」を定義し、

「そんな完璧な人はいない。人間誰でも短所はある」的に論理を導く・・・・これ自体が「皆無」「まったく意味」がないんです。

 

だから。

「自分を受け入れられる」

 

すべての状態=自分という価値ある存在だから。

社会でいう障がいあろうとなかろうと

仕事ができると定義されようとされなかろうと

 

関係ない。

関係ないんです。

 

だから

「自分を受け入れられる」

 

一時的なぐさめとか、「短所を受け止める優しさ」すらいらない。

 

今、呼吸をして、生きている。

 

そのあなたが「完璧で、唯一の価値ある存在」

病気をするしない

持病があるない

障がいあるない

仕事できるできない

 

「まったく関係ない」

 

しない、できない、と定義しているのは

「あなた以外の、社会の勝手な定義」

しかも「本質的意味のない、排除の論理

 

そうなんじゃないかなって思ってるんです。

 

いろいろ自問して、それでも気になるときは、、

かとうゆうです。

 

起きていることは、中立

意味づけは、あなた

引き寄せも、あなた

 

なので、ネガティブなことは「自分の投影」だから、と気づく。

自分自身の投影もあるし、

「こういうことをしないようにね」というメッセージもある。

 

そこまで、いろいろわかっても

気になる、、、

 

これは、

最後のコンプリート処理が必要だということです。

ゲーム。
エスト、ラスボス倒した。

 

でも、最後に宝箱開けないと終わらない(笑)

 

それは

「許す」

 

です。

 

どのような態度や言動を受けたと感じたとしても、

 

その人が「ありのまま」に、自分の世界に出現してくれたことを「受け入れる」

そして、気づきや、こうしてきっかけを得たことで「ポジティブな出来事」に変換する。

 

そして、

 

それもこれも、ぜんぶ、ひっくるめて

「許す」

 

ありがとう。

あなたの選択は、私はしないわ。

 

でも、あなたの選択は、尊重する。

 

なぜなら、あなたは私だから。

 

それでも、あなたは「変わらない」かもしれないけど。

 

それはもう

私とは「関係のない」

 

私が「介入しちゃいけない」こと

 

だから、私は、あのとき、あのように登場してくれた

あなたを受け入れ

あなたを「許す」

 

同時に。

そのときに思ってしまった、自分も「許す」

 

ありがとう。

あなたがいて体験できた。

 

それは、私には「ギフト」だから。

 

そして。

さようなら。

 

、、、ってこんな感じでしょうか?!

 

ふと思いついて、そのまま書いてみた!

 

「どうネガティブを手放し、どう自分を大好きになっていったか」

かとうゆうです。

 

今回は、具体的に、

「どうネガティブを手放し、どう自分を大好きになっていったか」

 

このプロセスを書いていきます。

 

私が、ネガティブなことを想像するとき

もう、ほんとうに「最悪、最低」の「あらゆるパターン」まで思考が及びます。

 

何か「ん?」というときが起きたとき、

あらゆるパターンの最悪、最低を考え、それに対して自分が対処できるかどうか?を延々と思考します。

 

仕事であれば、解雇とか退職せざるを得ない、あるいは休職せざるをえない

「あらゆるパターン」です。

 

では、なぜ、

「そこまで考えないと、ある種の”安心”を得られないのか?」です。

 

ここでのポイントは

あらゆるパターン、、、とはいえ、常に、最悪、最低のネガティブ「しか」思考しないということです。

 

最善、最良のパターン。

 

これは「あるかもしれないが、そこに期待して、裏切られること」に対する

「恐れ」を感じています。

 

だから、”安心”のために、

あらゆるネガティブなパターンを思考し、それへの対処を想定しないと、安心できない。

 

もちろん、こんな思考では「いくら考えても、安心はできない」

ネガティブは永遠に想像できます。

 

だから、考えすぎ、心配し、悲観し、

10代後半は自殺も想像し、これまで幾度かうつ病になりました。

 

そもそも、

なぜ

「この現実世界を生きるために、ネガティブなパターンを思考する必要を感じているのか?」ですね。

 

ずーっと自分に問いかけていました。

 

多くの人がそうであるように

「その根源は、育った家庭環境」にあります。

 

私もそうでした。

 

私の両親は、機能不全家族

 

小学生低学年の頃から、

夫婦仲はわるい。

 

だけど、喧嘩する、、、というよりも、

 

母親が突然ヒステリックになる。

ものにあたる。大きな音をたてる。

聞き取れないような早口で、罵声をつぶやく。

 

それは「夫」、つまり私の父に対する言動です。

 

食事の準備の前が一番多かったように記憶しています。

そして、テレビ。

 

父と兄妹でテレビをみていると、

母は、なにごとか聞き取れない罵声を発し、ドアを思い切り閉めたり、そして食事を作り始めます。

 

私たちは、テレビをみているだけですが、

「何か悪いことをしている」

気持ちになりました。

 

母の機嫌を伺う、、、これが私の日常でした。

 

このような母に対して、父は、反論も攻撃もせず、ただただ

「黙って耐えているだけ」でした。

 

父はその生い立ちも含めて「ネガティブなことは”耐える”」という態度をとります。

 

だから、父は、私にとって「守ってくれる」存在ではなく、

「同じ”被害者”」のような関係でした。

 

このような機能不全家族ですが、

両親は今も家庭内別居中、です。

離婚も、世間体が気になるとかでできず、

母は、自分がどうしたい?というよりも、父を責めるばかり。

父は、その問題から、逃げるように生きています。

 

そして。

このような家庭環境をあらためて思い出すと

 

私は

「何か特定のことを恐れ、不安になり、それがそうなったときのことを常に考えている」ことがわかります。

 

これはまさに、幾度も鬱病を経験した思考と同じ

「あらゆるネガティブなパターンを想像し、そうしないと”安心”できない」という心理につながります。

 

私は小さいときから、ずっと、このパターンを

繰り返し、繰り返し訓練されてきました。

 

だから、なにか起こると、

あるいはなにか未来を想像するとき、

 

なぜかポジティブなことは「起きなかったときの裏切り、恐れ」を感じるから「想像しない、

 

そして、あらゆるネガティブなパターンばかり考える・・・ここにつながっているようにかんじました。

 

でも。

一方、この経験は、

とはいえ、とても長い時間と辛苦を体験してきましたが、

 

「そのような思考パターンは、”幻想”であること」を気づかせるための経験でもありました。

 

むしろ、たくさんの時間、体験が必要なほど、

「私に染みついてた」ものです。

 

前世。

確信はなく、なんとなくですが、

私は

何度も「絶望的な戦いで自決」を体験してきたように感じています。

 

太平洋戦争での硫黄島戦、南北朝での敗北、自決。

 

恐らく、前世でも「この思考パターン」を繰り返してきたように思います。

 

その根幹は、

 

本当はネガティブというのは、「自分」が想像しているから、具現化する・・・ということですが、

 

私は「ネガティブ」は他律的に、まるでペナルティのように「私に襲いかかるもの」だと思ってしまっていたのでしょう。

 

この数年。

私は「そうではない」ことを「知る」ことになりました。

 

そうじゃない。

すべては「自分の想像と創造」

自然の法則

すべての人が「対等」で価値ある存在。

 

どんどん視点が百年先にいったような感覚になり、

会社とか経済とか、「そうである」と思っている仕組みが

滑稽にすら感じられるくらいに「知る」までに至りました。

 

でも「知る」が「しみこむ」までには、

何回かテストが必要です。

 

テスト、、ですが、実は、これはネガティブだから起きているのではなく、

「私へのギフト」です。

 

本当にポジティブ、宇宙と同じ無条件の愛を感じ、自分を愛することを、

自然に、なんの力もいれずできるために起きている「ギフト」です。

 

その「ギフト」が

この1,2週間の出来事でした。

 

そう考えてみると、最近の出来事と「思考パターン」にあまり関連はなく、別のネガティブが私にあるように感じましたが、

 

ちがいました。

 

同じです。

「他人、他物の”機嫌”を伺う」「ネガティブパターンをたくさん想像する」

 

1,2週間でおきたのは

 

所属する組織で感じました。

「これじゃあ、だめだ。こう”すべき”だ」と。

 

”すべき”というエネルギーは、

宇宙の法則、介入しないに反し、相手も自分も破壊する行為です。

 

相手も私も疲れる結果を迎えるのは必然でした。

 

最初、こう思っていましたが、ここに「家庭環境と同じ」がありました。

 

つまり。

 

私は、

他者、他物の機嫌、それはネガティブで最悪なことを恐れ、想像・・・してました。

 

そして、それに「対抗し、守るために」、つちかったのが

「すべき」です。

 

母なら、こうあるべき

父なら、こうあるべき

 

私は両親を直接攻撃することはありませんでしたが、

内心で、母や父に対して「こうすべき!」と怒りを向けることで

「必死に自分を守っていた」こと・・・

 

これに気づきました。

 

私が「すべき」が口癖になっていたのも、同じ「根源」でした。

 

こうして、

私は、この1,2週間の出来事を、むしろ「ギフト」だとらえはじめ、

私を支えてきた「ネガティブシステムの構造」に気づくことができました。

 

もちろん「テストとしてのギフト」はあるかもしれません。

でも、そのテストが「ネガティブにみえる」必要はありません。

ポジティブな「テスト」もあるでしょうし、もはやポジティブ以外に意味づけする必要すらないと感じています。

 

そして、ここが大事なことですが、

何回かテストを繰り返すと、「振り幅」がだんだん小さくなってきます。

 

そして、そのスピードはとても速くなっていると感じています。

 

親。

これも「私が選択」したことです。

 

現実的には「つらい」体験ですが、

しみついた思考パターンに気づき、本当の自分に気づくための「選択」です。

 

そう考えると、

 

あらゆる出来事は「中立」

意味づけは「あなた」

なぜなら、この世界は「あなたが創造している」

 

このことを「本当に体得」する

そのために、今、アセンションで加速する地球を選択し、

両親を選択し、鬱病、先天的奇形、膝の障がい、大病などいろいろな体験をテーマとしてきた。

 

まぁ、、、明らかに「不器用」で、

もっとほかにやり方あんだろ?と思いますが(笑)

 

私のソウルはそう選択したようです。

 

そして、今、私は、

「自分を愛する。抱きしめる」ということを、何度も言葉にし、思考することをしています。

 

繰り返し、繰り返し

「もう、恐れ、不安はいらないんだよ。それは、もともと”あなた”じゃない。あなたは、宇宙から100%、ちょーかわいい存在だと思われているんだよ。」

 

「今、起きていること。これから起きること。それはぜんぶ”ギフト”だよ。そして、ギフトだと思った瞬間から、あなたはすばらしい未来を、今、創造しているんだよ」と。

 

もうこれはあらゆる本や情報から、

耳にたこができるほど「理解」していることではありますが、

 

何百年か何千年かわかりませんが、

ネガティブを体験するために、ネガティブを体験し、

しみついてしまった「癖」「習慣」を、

 

完全に手放すプロセス、だと思っています。

 

 

・・・・って、、、まぁ、今日は、なんかマジメモードで書いちゃったなー(笑)

基本、ちゃらちゃらしてんすけどね、あたしゃ(爆)

 

なんかいけてない文章ですいません!

 

でも、この文章を書く・・・これ自体も自分の浄化であり、癖から解放する機会にしたい、、、なんて勝手に思って書きまくりました-!

 

追記)

ちなみに、読み返していたら、もう一個気づいちゃった(笑)

 

離婚したら?と父と母にいったことがあります。

でも、母は、父へのヒステリーを繰り返すだけ、

父は「耐える、逃げる」だけ。

 

「この人たちは、問題を直視していない!」と。

 

でも、ここで止まってましたね(笑)

 

要するにこうです。

「あなたはどうしたいの?あなたは、あなたの未来を創造できるんだよ!」

 

って、つまり、これは「私」に対するテーマでした(爆)

 

ネガティブ、出来事。

それは「他律的」に起きているわけじゃないし、いくらでも変えられる

 

「私は、私の気持ちの赴くままに未来を創造していいんだよ!」

 

これに気づくために、

こんな両親(?)、を「選択」した、、、

 

と気づきました-!

 

ま、難しいこと考えず

とにかく「やりたいこと、なりたいこと」

ここを素直にみて、想像して、等身大で生きていくってことですね!

 

"だめな自分”は、”存在しない”、、だから”前”に進む必要すらない

かとうゆうです。

 

さて。

よくあるのですが、

 

「だめな自分」

でも、、それを認めて「前に」、、、という話。

 

だめ、を直視してみたり

だめ、で「いいじゃん」と受け入れたり

だめ、「逆にいいところを考える」とか

 

いろいろありますけども。

 

なんか

そもそも、ちゃうなー、と。

 

「だめ」

 

ここですね、ここ。

 

さて。

 

あなたは、なぜ「自分がだめ」と思いますか?

その理由は?

 

ちょっと自分に問いかけてみると

 

「何か”自分以外”の言動」を「そうだ」と

「比較」して発生しています。

 

あの人は、テキパキできる、、、でも、自分はできない、とか。

あの人みたいになりたいけど、、、でも、自分じゃ無理、とか。

 

もっとありますね。

 

あの人みたいに少なくともできないと、これができない、、、だから自分はだめなままじゃ「だめ」

 

すごいですよね。

自分に対して

「”だめ”なままは、”だめ”」と

 

だめ押し(笑)

 

そもそも

「比較」

 

これ「自体」がいらないんです。

 

なぜなら

 

ひとりひとりが特別な存在だから。

 

全地球

全宇宙の中で

 

「あなたという存在・価値」は

 

たったひとり、「あなた」だけ、なんです。

 

で。

ここに立脚しないと

 

とてもじゃないですが「人類皆平等」とはいえない。

 

比較して、競争して、、、

ってことは「あなた以外と比較して、あなた以外になる」ってことなので。

 

仕事でテキパキ

育児でがんばれる、、、というのは、

 

多くの場合

「なにか比較」して、です。

 

テキパキできる人

育児はこうするものだという定義。

 

それらと比較。

 

この

「比較」

が不要なんです。

 

あなたが目指すのは

「あなたらしさ全快」

 

それが、他人と比較して、テキパキしていなかろうが、子育てが面倒だろうが、

「全然関係ない話」なんです。

 

「自分を愛する」

 

よくいわれますが。

 

ここに立脚しないと、

単なるナルシスト(笑)

 

宇宙からいうとどうみえるか?

 

あなたが、今、ここに生きていること

 

これが「最大の価値」です。

愛すべき、かわいらしくて仕方がないんです。

 

今、呼吸して

今、生きている

 

これが「最大」、MAXなんです。

 

それ以外のあらゆる要素、形容詞は

 

人間が「定義」し、「比較」して、発生させている

本質的な意味のないもの、です。

 

あの人より、テキパキできない、、という評価だけ、です。

 

評価は、それ以上でもそれ以下でもなく

「そうである(かも)」

というだけ。

 

なので。

 

「だめな自分」

は、

 

そもそも存在しない。

 

「だめ」自体がないんです。

 

この宇宙には、ない。

 

っていうことは

 

なにか

がんばって

歯を食いしばって

自分をなぐさめて

 

「前に進む必要」すら”ない”

 

あなたは、完璧に、今の状態。

それが、テキパキできないという比較だろうが、打たれ弱いという比較だろうが、

 

あらゆるものは

「比較して発生する形容詞」です。

 

だから、なんの「意味もない」

 

で。

 

この数千年間。

 

私たちは

「ネガティブ」というものを、とことん体験するために、

 

比較

優劣

上下

区別

 

という「分断」を生んできました。

 

どんどん区別し、ばらばらにして、断片のひとつに名前をつけて、そこに価値と思うことを定義して。

 

なぜなら

そうじゃないと「ネガティブを体験できない」からです。

 

でも。

今、アセンション

 

ようやく「思いだそう」としている。

 

ということは

「ネガティブを体験するために構築したシステム、信念体系が、本質的なものはない」ことを思い出すことでもあります。

 

これは

「禅」にもつながります。

 

維摩の無言

 

これは天地、宇宙をも貫く「無言」といわれますが。

 

無・・・

つまり、比較もない

対象もない

定義もない

 

今、ここ

この瞬間

 

ここに

「すべて」

 

だから

 

あなたは「あなたのままでいい」といったとき

 

そこに「足りない、だめ」、、だけど「それでいい」ではなくて

 

足りないも、だめも、一切なくて、

 

だから、そもそも「あなたのままでいい」と思う必要すらないくらい

 

「あなたの無言」が

 

全宇宙に存在していることを認識した瞬間。

 

アセンションはパワフルにおこなわれる、、、

 

そんな風に思っています。

 

、、、って、なんか、小難しいですね。

 

もう、ぜーーんぶ、はしょっていっちゃうと。

 

「あれこれ考えてないで、おいしいスイーツ食べませんか?」ってことです(笑)

 

 

手放す、気づく、それでも気になるときは、、、鏡の自分に、、、わお!ちょーはずかしい???大丈夫。ゲームだって「クエストクリア」は、やりこみ要素!

かとうゆうです。

 

さてさて。

私は、今「とてもポジティブな”揺らぎ”」の中にありますので、

これが「正しい」とか、そういうことではなく、

 

なるほどね、日常生活いろいろあるね。

なるほどね、そういう風に考えてるのね。

 

くらいってことで。

 

なぜって、「私」、あなたもですが、

この宇宙の中で「唯一の」「価値ある」存在なので、

気づき方は、いろいろですね。

 

さて。

 

最近、ほんといろいろあって。

「あーあー」状態だったんです。

 

「自分が創造している」のも理解はしているけど、

「つかれたかも」なんて。

 

でも。

先日のブログの通り

「あ!そうか。宇宙は100%無条件の愛で、私を、宇宙の中で、唯一の価値をもっている、ちょーかわいいやつと思っているんだ」

「なるほど。宇宙ちゃんは、感謝大好きなのね。あ!そうか!起きている出来事は”ぜんぶギフト”だ!」

「だって。ネガティブに感じたってことは、”手放せるよ”ってことだもんね!」と。

 

で。

「手放し」

 

これ具体的にどうするか?ですね。

 

えーと、理解して、咀嚼して、、、、、

 

とか?

いえいえ。

「気づく」

 

これでコンプリートです。

気づく=手放す、です。

 

なので、自分に問いかける。

「なんで、ネガティブと感じたの?なにが手放せる?」と。

 

で。

私は「ポジティブ揺らぎ」になるので、

一発で、ばしーっと、じゃなくて、いろいろああだこうだと(笑)

 

2つみつけました。

 

1つ。

「”すべき”が口癖」になってた!

 

いろいろ最近あったけど、ずーっとその前から、

だいたい「つかれたなー」ってなっちゃうときって、

 

「”すべき”」で、迫ったときだった!って。

 

すべき、、、これ、もっとも「いっちゃいけないワード」らしいっす。

宇宙的に(笑)

 

だって。

介入と変更の強制。

 

2つ理由あるかなって。

 

1つは

「すべき!」って、単に、私が、現実脳の制限的な範囲で、小さな狭い視点で考えたに過ぎないってことです。

 

宇宙はそんな小さい存在じゃない。

 

いきなりですけど。

縄文時代

そして、今。

 

この変化「想像できるでしょうか?」

現実脳で。

 

不可能ですね(笑)

不可能だし、する必要もない。

 

私たちは「愛に満ちた地球になろう!」って、宇宙に「丸投げ」すれば、あとは宇宙がいろいろ考えてやってくれる。

 

「現実化をどうするか?」は、私たちのマターじゃなくて、

宇宙ちゃん、です。

 

「よろしく~♪」で、おけ!

 

だから「すべき」って、もう自分も相手も「破壊するワード」

だから、疲れるの当然でしょ?って(笑)

 

もう1つの理由は、

えーと、なんだっけ?一瞬忘れたぞ(笑)

 

あ、じゃあ、これでいいのかな?

 

あ!思い出した(笑)

 

「すべき」ってことはですね。

「相手も価値ある存在」を「否定」することですね。

 

だって、私も相手も「ワールドを創造中のクリエイターです」

 

すごい芸術作品。

 

相手の芸術作品に「すべき!」って、これ完全に意味がないですね?

ゴッホが、レンブラントに「すべき!」っていう感じ(笑)

 

ゴッホも、レンブラントも「それぞれ」ですからね。

両方、すばらしい。

 

なので「すべき」っていうのは、

小さな現実脳で、勝手に思ったことを、相手に押しつけ、相手を否定し、相手は「自分」なので、自分を「破壊」すること。

 

ま、、、

簡単にいうと、

「意味がない」

「むだ」って、ことですね(笑)

 

と、、、気づきました、やっと(笑)

 

これがいっこめ。

まだあるんかい!(爆)

 

私ね。

口唇口蓋裂って先天的で、上唇から鼻のあたり、すんご整形してる。

乳児の頃ね。

 

ま、ぱっとみわかるほどじゃないけど、

よくみると「奇形」

 

でも、「奇形」って、

それ「何かの外見=正常」っていう排除概念だから、

 

「意味がない」

 

それも、すんごいよくわかる!

 

よくわかる!

気づく、、、でも、手放せない!

 

こういうことって結構あるかもですね、みなさんも。

 

「わかってる!もう十分、、、でも、気になる、、、」っていうの。

 

これ。

今んところですけど。

「気づき」としてはコンプリートしてるんです。

 

ラスボスはもう倒せてる(笑)

 

実は「そこ自体」になにかあるんじゃなくて。

 

私たち、子供の頃から、ずーーーっと比較され、競争してきちゃったので

「自分を愛せない」状態なんですね。

 

足りない

欠けている

っていう、概念。

 

そもそも「ひとりひとりが唯一の価値」ってことはですよ?

 

「他者と競争する」意味は、ゼロなんです。

意味がない。

 

だって、唯一の価値は、あなたしかいない。

他者も、そう。

 

だから、あなたの唯一の価値を「放り出して」

足りないだの、欠けているといって

「他者の唯一の価値を目指す」って状態。

 

これ、完全に「意味がない」ですね(笑)

 

だから、欠けている、足りないって「ない」

 

でも、親からもそうだし、学校、企業、組織。

生活のひとこまひとこまで

 

「染みこんでる」

 

だから。

「奇形、、、意味がない」って気づいたとしても。

 

「気になる」・・・っていうのは、

そこ自体じゃなくて

 

自分は、宇宙からみて、唯一の、まるで私たちが愛犬や子供に思う気持ちと同じように「ちょーかわいい存在」だということ。

 

そして「そうだ」ということを、

繰り返し、繰り返し、自分にいう必要があります。

 

アファメーションなんてやり方ありますけど。

 

唯一の価値なので、やり方は、自分にしっくりくればなんでもよくて。

 

とにかく「繰り返し、繰り返し」

 

鏡の自分に「私って、ちょー愛されている」ってくらいまで(笑)

 

これ、ナルシストとはぜんっぜん違うんす。

ナルちゃんっていうのは、「比較」「足りない、欠けている世界」にいたまま、「自分を愛している、、、と思い込んだ」状態。

 

私は、、、(本心では)、ここの目の形がかわいくないって思っているけど、そうじゃないの、そうじゃないの、私の目はかわいいの!

、、、と、比較概念を前提にして「愛すること」なので、

やっぱり「疲れます」(爆)

 

じゃなくて、足りないもなんにもなくて。

優劣、長短、太っているやせている、顔が大きい小さいとか

「あらゆる比較概念」をぜーーんぶ、とっぱらって

 

「ちょー愛される」ことなので。

 

それを、ごく普通に自然に、鏡の自分に

さくっといえるくらいまで、

 

繰り返し繰り返し。

 

まぁ、それくらい、私たちは「すり込まれ」ちゃったんですよね。

あ。

もちろんネガティブ体験するために、私たちが「選択」し、構築した「ネガティブシステム」なんですけどね(笑)

 

だから

「十分きづいたはずなのになーー、なんで気になるんやろ?」と思ったら、

 

まず

そのこと自体を「考える」「想像する」のを「やめる」

やめちゃう。

停止。

ゲーム終了!

 

で、「自分が100%無条件に宇宙に愛されている」ってことを、あなたに合うやり方でやってみること。

 

え?

私、、、鏡の前で「愛してる」って「自然に」言えるの???

 

だから、いってるじゃないっすかーー

「ポジティブな”揺らぎ”」の中だって(笑)

 

 

病気、貧困は、「欠けている」でも「足りない」でも「がんばれたいけどがんばれない人」ではない、無条件、、、とはそういうこと

かとうです。

 

昨日、友人が「指定難病」だと。

 

本人は「だけど、それで”働けない””配慮が必要”と思われたくない。だからいいたくない。」と。

 

はい。

で、ここで話は区切ります。

 

なぜなら「友人」の言葉じゃなくて、

それを「一般化」して書きたいから。

 

で。

 

働けない

配慮

 

これ、優しさ、ですね?

 

でも、この根底に

「モデル」があるんです。

 

つまり。

フルタイムで働くこと=正常である、と。

だから「配慮」が必要だ、と。

 

「正常」が提示されているんです。

だから、「病気のことはいいたくない」

 

でも。

「正常」じゃないんです。

「病気がないこと」が、「正常」じゃないんです。

 

宇宙は無条件、100%の愛です。

正常とか、そうじゃないとか

「一切、定義やモデル」はないんです。

 

たとえば

病気だと。

病気で「かわいそう」じゃなくて、「対等に接したい」と。

 

そういうことでもないんです。

 

「対等」とか「かわいそう、かわいそうじゃない」とか

あらゆる「対比概念」を超えて

 

「無条件」なんです。

 

だから、

病気。

 

これ「欠けている」でも

「足りない」でもないんです。

 

本人が「不足」を感じて、「いうことを控えたり」、そこにコンプレックスを必要はない。

 

「だれだって、病気はしますから」

ということですら、「ない」んです。

 

同情、配慮、、、

その根底には「フルタイム=正常」が横たわっています。

 

対比概念すべてをこえて「100%」なんです。

いいもわるいも、ポジもネガもなくて

 

そのまま、完璧に「100%」

 

これは

「貧困」も同じ。

 

よくいわれます。

「がんばりたいけど、がんばれない状態」だから、支援と。

 

違いますね。

 

「がんばっている」んです。

 

条件や環境が違うだけで

それが世間の「成功」とか「安定」と違うだけで

それらは「定義」なんです。

 

同じように「がんばって生きている」んです。

 

だから、

「がんばれないけど」・・・という表現に、

すでに「がんばる=ある程度収入があり、自分で安定して生活できる状態」

これが「正常」というモデルが横たわっているんですね。

 

さらに

「がんばる」

というのは、

他人が評価判定することじゃないです。

 

本人、ですね。

 

だから

「障がいがある」もそうですけど

 

障がいは、「健常=正常」とする排除概念に過ぎません。

 

意味がない。

本質がないんです。

 

こうしてみると

この世の中には

 

「たくさんの”正常”」があります。

 

企業、学校。

 

モデルを設定し、

それ以外を「排除」し、

そこに「配慮や優しさ」を提示したとしても、

 

本物じゃない、んです。

 

本物は

「モデル自体」がいらない。

 

だから、

病気。

貧困。

障がい。

うつ。

自殺。

未遂。

 

あらゆるものは

「そうではない状態=”正常じゃない”」じゃないんです。

 

だから

「対等」なんです。

 

だから

「すべての人は価値ある存在」

なんです。

 

今、この瞬間。

社会が、その人を「どう定義」しようとも

まったく無関係なんです。

 

だから、

病気のこと。

 

素直に明らかにしたいならいえばいい。

明かしたくないならそれでもいい。

 

すべて「本人の好み」です。

 

そこに「フルタイム=正常」、正常に向かって「欠けている」と思われたくないから

「いわない」

という状態ではないんですね。

 

特に、気をつけないといけないのは

 

「それなりに育ってきて、そこそこ親も、まぁ、恵まれて。成功ってほどじゃないけど、自分で生活できる収入がある」

という経験をした方。

 

どうしても「正常」概念が蓄積されてるんです。

 

「最近の若い人は”弱い”」

「最近の若い人は”失敗から立ち上がることを知らない”」

 

これ、正常概念。

優劣概念がある言葉なんです。

 

自分は「ある程度できている」に価値をおいてしまっている言葉なんです。

 

だから、貧困は「がんばりたいけど、がんばれない」

「病気は配慮しないといけない」

 

そうじゃない。

がんばっていきてる人、は、いかなる状態の人も「同じ」

病気は「上から目線」の「配慮も優しさ」も必要はありません。

 

病気?そーなんだ。そうかそんな症状あるのねー。え?今、めまいがしている?そうか、そうか、、、あ。この荷物運んでおくねー。

 

これで、いいんです。

 

自然。

普通。

 

病気は「特別」でもない。

いつか誰かがなる「欠けた状態」でもないんです。

 

あなた、私。

ありのまま。

無条件100%

 

対比、優劣概念は一切いらない。

 

車いすの人。

「”定義ある”優しさ”」は不要なんです。

 

あ!そこ、石あるね(ポイッと放り投げ)、じゃあねー!

 

車いす

「欠けている状態」でもないし、

「ついつい目をやってしまう存在」でもない。

 

あなた、私。

同じように、

100%無条件に愛されている

「対等」で

「価値ある存在」

 

そして。

これが「アセンションの本質」なんです。

 

チャネリングのスキルは、あればいいかも、くらいの”枝葉”

 

本当の意味で100%無条件

対等、価値。

 

そして、そうなったときに

「私、あなたも、無条件にあらゆるものを創造できる」ことを体験すること。

「私、あなたも、愛の存在だから、そこから創造、表現するものも”すべて愛”でしかない」

「だから、私、あなたも”あらゆることを創造”しても、利己や悪意にはなりえない」

 

これを思い出すこと。

 

これが「アセンションの本質」です。