ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

仕事も生活も、ぜんぶ思ったまま自由に生きる人

病気、貧困は、「欠けている」でも「足りない」でも「がんばれたいけどがんばれない人」ではない、無条件、、、とはそういうこと

かとうです。

 

昨日、友人が「指定難病」だと。

 

本人は「だけど、それで”働けない””配慮が必要”と思われたくない。だからいいたくない。」と。

 

はい。

で、ここで話は区切ります。

 

なぜなら「友人」の言葉じゃなくて、

それを「一般化」して書きたいから。

 

で。

 

働けない

配慮

 

これ、優しさ、ですね?

 

でも、この根底に

「モデル」があるんです。

 

つまり。

フルタイムで働くこと=正常である、と。

だから「配慮」が必要だ、と。

 

「正常」が提示されているんです。

だから、「病気のことはいいたくない」

 

でも。

「正常」じゃないんです。

「病気がないこと」が、「正常」じゃないんです。

 

宇宙は無条件、100%の愛です。

正常とか、そうじゃないとか

「一切、定義やモデル」はないんです。

 

たとえば

病気だと。

病気で「かわいそう」じゃなくて、「対等に接したい」と。

 

そういうことでもないんです。

 

「対等」とか「かわいそう、かわいそうじゃない」とか

あらゆる「対比概念」を超えて

 

「無条件」なんです。

 

だから、

病気。

 

これ「欠けている」でも

「足りない」でもないんです。

 

本人が「不足」を感じて、「いうことを控えたり」、そこにコンプレックスを必要はない。

 

「だれだって、病気はしますから」

ということですら、「ない」んです。

 

同情、配慮、、、

その根底には「フルタイム=正常」が横たわっています。

 

対比概念すべてをこえて「100%」なんです。

いいもわるいも、ポジもネガもなくて

 

そのまま、完璧に「100%」

 

これは

「貧困」も同じ。

 

よくいわれます。

「がんばりたいけど、がんばれない状態」だから、支援と。

 

違いますね。

 

「がんばっている」んです。

 

条件や環境が違うだけで

それが世間の「成功」とか「安定」と違うだけで

それらは「定義」なんです。

 

同じように「がんばって生きている」んです。

 

だから、

「がんばれないけど」・・・という表現に、

すでに「がんばる=ある程度収入があり、自分で安定して生活できる状態」

これが「正常」というモデルが横たわっているんですね。

 

さらに

「がんばる」

というのは、

他人が評価判定することじゃないです。

 

本人、ですね。

 

だから

「障がいがある」もそうですけど

 

障がいは、「健常=正常」とする排除概念に過ぎません。

 

意味がない。

本質がないんです。

 

こうしてみると

この世の中には

 

「たくさんの”正常”」があります。

 

企業、学校。

 

モデルを設定し、

それ以外を「排除」し、

そこに「配慮や優しさ」を提示したとしても、

 

本物じゃない、んです。

 

本物は

「モデル自体」がいらない。

 

だから、

病気。

貧困。

障がい。

うつ。

自殺。

未遂。

 

あらゆるものは

「そうではない状態=”正常じゃない”」じゃないんです。

 

だから

「対等」なんです。

 

だから

「すべての人は価値ある存在」

なんです。

 

今、この瞬間。

社会が、その人を「どう定義」しようとも

まったく無関係なんです。

 

だから、

病気のこと。

 

素直に明らかにしたいならいえばいい。

明かしたくないならそれでもいい。

 

すべて「本人の好み」です。

 

そこに「フルタイム=正常」、正常に向かって「欠けている」と思われたくないから

「いわない」

という状態ではないんですね。

 

特に、気をつけないといけないのは

 

「それなりに育ってきて、そこそこ親も、まぁ、恵まれて。成功ってほどじゃないけど、自分で生活できる収入がある」

という経験をした方。

 

どうしても「正常」概念が蓄積されてるんです。

 

「最近の若い人は”弱い”」

「最近の若い人は”失敗から立ち上がることを知らない”」

 

これ、正常概念。

優劣概念がある言葉なんです。

 

自分は「ある程度できている」に価値をおいてしまっている言葉なんです。

 

だから、貧困は「がんばりたいけど、がんばれない」

「病気は配慮しないといけない」

 

そうじゃない。

がんばっていきてる人、は、いかなる状態の人も「同じ」

病気は「上から目線」の「配慮も優しさ」も必要はありません。

 

病気?そーなんだ。そうかそんな症状あるのねー。え?今、めまいがしている?そうか、そうか、、、あ。この荷物運んでおくねー。

 

これで、いいんです。

 

自然。

普通。

 

病気は「特別」でもない。

いつか誰かがなる「欠けた状態」でもないんです。

 

あなた、私。

ありのまま。

無条件100%

 

対比、優劣概念は一切いらない。

 

車いすの人。

「”定義ある”優しさ”」は不要なんです。

 

あ!そこ、石あるね(ポイッと放り投げ)、じゃあねー!

 

車いす

「欠けている状態」でもないし、

「ついつい目をやってしまう存在」でもない。

 

あなた、私。

同じように、

100%無条件に愛されている

「対等」で

「価値ある存在」

 

そして。

これが「アセンションの本質」なんです。

 

チャネリングのスキルは、あればいいかも、くらいの”枝葉”

 

本当の意味で100%無条件

対等、価値。

 

そして、そうなったときに

「私、あなたも、無条件にあらゆるものを創造できる」ことを体験すること。

「私、あなたも、愛の存在だから、そこから創造、表現するものも”すべて愛”でしかない」

「だから、私、あなたも”あらゆることを創造”しても、利己や悪意にはなりえない」

 

これを思い出すこと。

 

これが「アセンションの本質」です。