ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

仕事も生活も、ぜんぶ思ったまま自由に生きる人

完璧な人にならなくていい、、、とはよくいわれますが、「完璧」っていうのが、ちょっとなーって話

かとうゆうです。

 

よく「完璧な人にならなくていい、あなたはあなたのままでいい」

 

っていわれますけど。

 

たぶん、これ

「なぐさめ」にしかならないかもって感じます。

 

つまり。

「完璧でない」

できなかったり、足りなかったりする・・・けど!「それを含めて人間だから、自分をすべて受け止めよう」的な感じですけども。

 

結局

「比較」

しているんですよね。

 

誰かか。

何かかと。

 

で。

「できない」

「足りない」

と。

 

でも、アセンションっていうのは

「比較」

これ自体が「不要」

 

そこに本質はない。

 

なぜなら

この宇宙で、あなただけが唯一の価値ある存在だから。

 

唯一の価値ある存在が、75億パターン、地球にあるわけです。

 

なので。

「比較」はいらない。

っていうか、そもそも意味がない。

 

会社でも

学校でも

社会でも

 

「比較」ですね。

 

成長のために「他人と競争する」という、意味のないことをしている。

 

優劣

上下階層

特定の言動を正常として、区別・排除し、

排除した人間を「正常」と定義したことに矯正する。

 

障がい者と健常者

男性的と女性的

優れた人とそうではない人。

病気の人、健康な人

これらは、本質的に「意味」がないものです。

 

どのような状態。

どのような属性。

どのようなものであろうとも

「すべて、あなたしかない価値あるキャラクター」です。

 

病気とかね。

仕事でよく「なんかわるい」みたいなこといいますけど。

全然そんなことはなくて。

 

病気、、、という、ただそれだけです。

でも、フルタイム=正常っていう固定観念あるから、

病気になって申し訳ない、、、と

自分で、自分に「足りない状態」としている。

 

だから、まだ「中世」だなーっていうのは、この根本が変わってないからですね。

 

で。

アセンション

「ひとりひとり価値ある」です。

 

なので。

 

そもそも「比較」いらないんですね。

 

ゼロ

1ミクロンもいらない。

 

なので。

「完璧な人」といったとき、

 

他人とか

他ぶつとか

他の状態と「比較」して「完璧じゃない」を定義し、

「そんな完璧な人はいない。人間誰でも短所はある」的に論理を導く・・・・これ自体が「皆無」「まったく意味」がないんです。

 

だから。

「自分を受け入れられる」

 

すべての状態=自分という価値ある存在だから。

社会でいう障がいあろうとなかろうと

仕事ができると定義されようとされなかろうと

 

関係ない。

関係ないんです。

 

だから

「自分を受け入れられる」

 

一時的なぐさめとか、「短所を受け止める優しさ」すらいらない。

 

今、呼吸をして、生きている。

 

そのあなたが「完璧で、唯一の価値ある存在」

病気をするしない

持病があるない

障がいあるない

仕事できるできない

 

「まったく関係ない」

 

しない、できない、と定義しているのは

「あなた以外の、社会の勝手な定義」

しかも「本質的意味のない、排除の論理

 

そうなんじゃないかなって思ってるんです。