ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

仕事も生活も、ぜんぶ思ったまま自由に生きる人

よく「今は”中世”」だと表現するんですけども、それとアセンション、ティール組織、スキルシェアが起きている「根本」を感じるからなんです。

かとうゆうです。

 

ブログでもいろいろ書いてきましたが。

 

なんだか自分の「視線」、、、みたいなものが100年、200年先になっている感じがして。

 

今の社会。

「中世」にみえている、っていう話です。

 

確かに。

「身分制」という、システムはなくなりました。

 

でも。

「身分制のエッセンス」は、「まだまだ残っている」と思ってます。

 

身分制のエッセンス。

 

これシンプルな言葉で表現すると、

「今もそうだな、、、」っていうのがみえてきます。

 

まずは「偉い人、優れた人、そうでない人」

これを「社会的身分」として固定すると、身分”制”ですが、

 

よくみてみると「今」も「身分」あります。

 

カイシャ。

どうでしょう?

 

そもそも「エラい人」っていう表現残ってますね?

わりと使う。

 

学校も、みてみましょうか。

「よい子、悪い子」

これも、よく使いますね。

 

さらに。

カイシャでは、役員とか社長は「エラい人」

学校では、先生が「エラい人」

 

こうやって、人を「優劣」で区別してます。

 

え?それはそういうもの?

、、、えーと、私は「まったく異常」にみえるんですね。

 

そもそも「優れた」「エラい」・・・という「区別」

この瞬間に「異常が発生」します。

 

優れた、、、っていうことは、「劣っている」という人が登場します。

エラい、も同じ。

 

何か特定の「言動」を「正常、優秀」と「定義」する。

これが「優れた」という構造ですが、

この瞬間に

「排除」が生まれます。

 

障がい者も同じ。

「健常者」を「正常、優秀」と「定義」した瞬間、それ以外「劣った人・なにか”ふつー”のことができない人」

 

よい生徒、も同じですね。

先生のいうこときいて、友達たくさんいて、挨拶はきはき、出席もばっちり。

で。

この瞬間「わるい生徒」、さらに「不登校児」という「排除」が生まれます。

 

この構造「怖くないですか?」

 

え?「怖い」まではいかない?

 

でしょうか。。

 

「優劣判定」をした瞬間に、

「何が起きているのか?」です。

 

カイシャだと、「評価が低い=劣った人」

これは「優れた、と定義する人に向かって"矯正”を要求されます」

 

学校も、

「よい子」に向かって、そうでない子”矯正”する。

 

障がい者も、"矯正”して、「健常者というモデルに、近づくことを要求される」

 

「矯正」の論理が働いているんですよね。

 

表向きは「成果主義」だとか「教育」だとか「美辞麗句」ですけども、

やっていることは

「何か特定の言動を”正常”とし、それ以外を、少しでも”正常”にむかうよう”矯正”している」わけです。

 

しかも、です。

しかも。

 

そもそも「正常」「優れた」「よい子」って、

これ・・・なにか生命の普遍的なものでしょうか?

 

全然無関係ですね。

人為的。

しかも「勝手に」です。

 

仕事ができて、はやくて、リーダーシップもあって・・・・

でも、それが「本当に”正常”」でしょうか?

 

75億人の人間がいて、それぞれ個性がある。

リーダーに「そもそも向いていない、関心がない」人もいる。

リーダーといっても、率先型やらフォロー型などいろいろある。

 

いきなりですけど。

「12星座占い」とかって。

人間を「12タイプ」に分けるわけですけども。

 

これ「みなさん、当然」だと思って占いみていることがあります。

 

それは

「そもそも、12個程度にタイプ分けしていることは”ざっくり”だ」と。

 

だから、「牡牛座のあなたは、こう!」といわれても、

「ざっくりベース」だと思えるので、「どこか気楽」ですね?

 

「今日の運勢」でもなんでも。

 

で。

12タイプ。

 

いかに「ざっくり」しているか?です。

 

でも、不思議なことに

カイシャとか、学校は

すくなくて「3タイプ」、よい、ふつう、わるい

多くても「8タイプ」くらい。リーダーとプレイヤーの2軸×4段階とか。

 

そもそも、これ

「会社」「学校」という”人間以外”にとって「都合のよい人間を”よい””優れた”」としているだけです。

 

わかりやすくいうと「人権」とか「生命」とかは「無視」ですね。

 

都合のよい「優れた」

都合のよい「よい子」

 

これを「正常」として、それ以外を「矯正」する・・・

 

さて。

ここで問いかけです。

 

「この状態で、”人類皆平等”とか”人権”とかいえるでしょうか?」

 

・・・いえませんね。。。

 

日本はさらに「定義」多いです。

「女性として」

「男性として」

仕事と家庭。

 

これも「怖い」です。

だって「あなた」という人間じゃなくて、

女性とか男性とかの「属性」で「定義」されるんですから。

 

こうやってみると、

この社会は

 

都合のよい「よい、わるい」「すぐれた、おとった」

都合のよい「属性としての”らしさ」という定義。

 

これに「満ちています」

 

で。

もっというと、ですね。

 

この状態は「明らかに進化の妨げ」になります。

 

人間を「人間」としてではなく、組織や属性として「定義」する。

そして、その定義にあったように「働き」「生き」「育てる」ことを要求される。

 

いわば、

ひとりの人間に、たくさんの「箱」がかぶさっている状態。

 

人間って、そんなに「小さな存在」じゃないですね。

たくさんの関心、たくさんの「クリエイト」が本来できます。

 

料理でも音楽でもなんでもいいんですけど。

たくさん「クリエイト」していく能力をもっている。

 

だから

「優れた」とか「劣っている」とか「箱」に閉じ込めて

「箱の中でいきる」よりも、

 

「その人らしさ」

「あなたらしさ全快」であるほうが、はるかに「パワフル」で「生命的」です。

 

生命的・・・というのは、動物や植物を愛する心を「人間」はもっている。

「らしさ全快」の社会なら、地球環境破壊も起きえない。

 

組織やチームなにかを「クリエイト」するときも

今の「カイシャ」という箱で議論されたことより、

「らしさ全快」の人が集まって議論した方が

はるかにエクセレントなものが生まれる。

 

なので、端的にいうと

「本末転倒」なんです。

 

生命。

生命は、

ひとつひとつ価値がある。

 

比べる必要はない。

 

動物の世界でも、

「あの犬は、僕より劣っている」と思っている”犬”はいません。

 

そして「生命」には

愛情や優しさがある。

 

本当に「人権」「人間」というのであれば、

 

なにか特定の言動を「正常」とし、それ以外を「排除」する必要はない。

エライも、優れたもなく、

劣ったも、なにもない。

 

「あなた」

地球上のたったひとりの「唯一の価値」

 

みんな、「ひとり一人価値」

 

これが本当に浸透した社会には

「優劣」「上下」「排除」「矯正」はないんです。

 

ちなみに。

私は、軽い障がい者

右膝が曲がらない。

 

社会は「障がい者」といい

「走ったりすることが難しい人」と定義する。

 

でも、「ひとりひとり価値ある」に立脚すれば、

そこには「障がい」はない。

 

私は「体がやわらかい」

私は「目がいい」

と同じ感覚で

私は「右膝が曲がらない」・・・ただ、それだけの話です。

 

でも、

障がい者雇用。

障がい者」と定義した瞬間。

給料は3分1、仕事も「事務」・・・・こんな求人しかありません。

 

一方、Googleなど世界的企業では

発達障がい者が高度IT人材として活躍。

 

発達・・障がい・・・

つまり「発達した」という定義があり、それに「劣る」人を「発達障がい」と呼ぶ。

でも、それは障がいでもなんでもなく「たくさんある”らしさ”」に過ぎません。

 

社会はたくさんの「定義」だらけ。

LGBTqという「呼称」だって、そうですね。

本来、区別する必要もない。

 

区別。

特定の言動を正常として、排除。

排除された人は「正常」になるべく「競争」「比較」

 

競わせる。

点数。

テスト。

 

これ。

ここまでいうとすんなり・・・かも、ですが。

古代王朝。

戦国時代。

江戸時代。

 

こうした「身分制」があった時代と「変わらない」

 

だから「中世」のように、今の社会をみています。

 

別の言い方をすると

「サバイバル時代」

ネガティブ時代と呼ばれる時代。

生きるか?死ぬか?

殺すか?殺されるか?

 

このサバイバル時代。

生き抜くために、「区別」「排除」「矯正」を生み出しました。

 

「事実上の身分制がある社会」とは

こうした「サバイバル時代」が持つ、

生きるか?死ぬか?

殺すか?殺されるか?・・・が、根本の根本にある「世界観」です。

 

だから、地球環境を「排除」しても、「人間が生き残ろう」という、完全におかしなことが起きてしまう。

 

そして

アセンション

 

アセンションというのは、こうした何千年も前からの

「サバイバル時代からの”脱却”」です。

 

ひとりひとりが価値ある存在。

すべての生き物、生命に価値をおく社会。

 

殺す、殺されるではなく、

「あなたらしさ」で「生きていく社会」

 

いわば、「死から生」への転換といってもいいほど大きなポイントです。

 

そして、それはもう「突入」しています。

ブログでいろいろ書いているので、多くはかきませんが、

 

それは

スピ系の話題だけではなく、

ティール組織

ノーレイティング

スキルシェア

クラウドファンディング・・・

 

一見「別の現象」にみえるかもしれませんが、

根本は「同じ」です。

 

私たちはようやく、何万年、何千年ぶりに

「人として」

価値ある、

「生命として」

価値ある、あり方を本当に実現できる時代になっています。

 

だから「二極化」

この「根本の変化」を選択せず、

サバイバル的にいくのか?

あなたらしさ全快でいくのか?

 

お互いの距離はどんどん離れている、、、そんな気がしてなりません。