ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

仕事も生活も、ぜんぶ思ったまま自由に生きる人

子供は「幼い」・・・・うーん、でもそうみちゃうから「看板の裏でかくれんぼ」することから気づけないこと多いんじゃないかなっていう話です

かとうゆうです。

 

いきなりですが

「(未就学児くらいの)こどもって、”幼い”って思いますか?」

 

という問い。

 

ははー、なるほど、そういう問いするってことは「幼いじゃない」っていいたいんでしょ?と。

 

はい(笑)

 

ある意味、不思議な挙動しますね。

横断歩道とか、道のちょっとしたでこぼことかで、遊んだり。

看板の後ろに隠れてみたり。

 

「幼い?」

 

いえいえ。

これが「本来の姿」ですね、人間の。

 

横断歩道とは、縦線が並んでいて、歩行者がわたるところ・・・

看板は表に書いてあることが大事・・・

 

これ、「人為的」

つまり「あとから”セット”されたもの」です。

 

これもいきなりですが、

今、あなたは「看板」になりました、と。

 

看板です、あなたは。

 

看板(あなた)からしたら、表も裏もなくて、「ぜんぶ、”あなた”」です。

表だけしかみない人間は、ちょっと滑稽かも。

 

生命もそうですが、あらゆる物、物質は

「ただ”ある”」状態です。

 

なんにも「人為的」定義はないです。

 

ゼロ。

 

で。

ちょっと飛躍しますけど、

引き寄せにしても、チャネリングにしても、なんでもそうなんですけど。

「人為的定義がない」状態。

 

これがキーポイントです。

 

たとえば「結婚したい」

 

誰かと一緒に過ごしたい、、、は「本来の気持ち」かもしれませんが、

結構、定義だらけ。

 

「誰かがいないと、私は”足りない”」

「私は、幸せになれない」

「周りがみんなそうだから」

「私は、”孤独”だから」

 

これ、全部「定義」

 

だから、

この定義がある状態で

「結婚したい!」とすると・・・

 

「誰かがいない・・・状態」がきたり

「周りがどんどん結婚する状態」がきたりする。

「相手ができても、その相手が”自分に不足感”満杯な状態で、ちょっとぐらぐら」してたり。

 

本人としては「全然うまくいかない!引き寄せ!」ってところですが、

そうじゃなくて、

 

完全、完璧に「引き寄せている」から「起きている」

 

引き寄せ・・・の身になってみますと、

引き寄せさんはこういっている、

「ねぇねぇ。足りない、とか、遅れている、とか、、、そこなのよ、そこ。そう思っているから、”不足”になる。そこを手放さないと。」

 

「自分が”不足”と思っている人に、”充足”としての結婚ができちゃったら、あなた自身にとって、あなたのテーマにまったく気づくことができないわ。どこかでまた繰り返すだけ。っていうか、これ前世も同じだったけど、これから何百年もまた繰り返すの???・・・まぁ、それも、あなたの選択ではあるけれど、、、」

 

「不足じゃないし、何も遅れてないわ。そこにあなたが気づいた瞬間、不足でもないし、遅れてもない、完璧なタイミングで、パートーナーと出会うわ」と。

 

定義。

社会的には、

男性とは、

女性とは

生徒とは

会社員とは

妻とは

夫とは

母とは

父とは

 

横断歩道から、電車の改札まで

「定義」

 

で。

「定義があること」自体は、別にへんな話でもないのですが、

そこに「上下、優劣、ねばらならない」というエネルギーが加わる、

 

「定義を定義として、”確定”させる」・・・これが、いわゆる「観念」とか「思い込み」なんです。

 

、、、って考えると、

この社会、生活には「無数の定義があって、あなたはその無数の定義に意味づけをし、それを絶対的なもの」として、自分の言動を「縛っている」わけです。

 

もちろん。

自然法則。

質量保存だとか、元素構成やら、「自然の法則」も定義なんですけど。

「それがなかったら、そもそも現実世界は存在しない」わけです。

 

というか、「自然の法則」と定義を、集合意識で合意しているから、現実世界が成立し、体験が成立している。

逆にいうと「自然の法則」すら、「自分で創り出している」ともいえる。

 

引き寄せにしても、なんにしても、絶対的に働いている。

 

だから、現実世界を体験するために「必要な自然の定義」はある。

だけど、それ以外の社会だ、道路だなんだかんだというのは「人為的」

 

人為的・・・はもう無数で、

そこに意味づけをし、自分を縛っているのも「気づかない」

あるいは「それが、私の信念だ!」とすら思い込んでしまう。

 

「こうあるべきだ!」みたいな。

 

こうあるべき!っていった瞬間に「反対」が発生。

すなわち「対立」「闘争」「戦争」の根源でもあります。

 

さて。。

 

「子供が、幼いか?」

 

もちろん車の往来を知らずに横断歩道を渡るのは危険なので、それは「社会知識」として教えることはありますが、「横断歩道」自体は「ただ”ある”状態」

 

って考えると、

「あ。そうか。そもそも”安全に渡る”ためなんだよね?だったら、縦線を並べるより、こうしたら?」なんて、アイディアも生まれる。

 

もっというと

「っていうかさ。そもそも車社会やめない?、へんだよ。地球の表面をコンクリートで覆って、そこしか歩けないって。地面からたくさんのエネルギー得られるし、街変えようと」とか。

 

地球環境破壊って。

結局、こういう「そもそも」を「変えられない」ところから起きている、ともいえるかもしれないです。

 

あと「社会的”知識”」だということです。

 

つまり、知識。

知っているか?知らないか?なので、

 

「私、おいしいシフォンケーキの店知ってるんだ!」

「へぇぇ・・・」

 

というレベル。

 

つまり、「知っている=優れている」ってわけでもなんでもない。

ただただ「知っている」というだけですね。

 

だから優劣はない。

 

でも、この社会は、競争優劣の世界なので、どうしても「知識の量=優れている」になってしまっている。

 

しかも、この場合の「知識」って、「人為的定義」ですね。

 

「知っている」

ただ、それだけ、それ以上でも以下でもない。

 

のに、優劣があるから、

「私は足りない」っていう概念が登場する。

 

で。

足りない、とか優れている・・・っていう概念を出した瞬間に

「人間が区別」される。

 

おっけーな感じの人は、優れている。

それ以外は「おっけーな感じの人になるように"矯正”する」

つまり「あなた以外の”あなた”になれ」と。

 

おっけーも、優劣も、人間にはなんにもないですね、本来。

障がい・・ていうのも「単なる区別」です。

 

健常者=正しい、としているだけ。

 

足があまり力が入らず、杖をついている・・・ただ、それだけです、本来。

 

でも、

障がい者、かわいそう・・・とかになる。

 

こうしてみると、障がい者は、精神も身体も「存在」しない。

 

すべての人が価値ある存在とは「そういう社会」だと思っています。

 

あれ???話が変わってきたかも(笑)

 

戻しましょう。

「子供」

 

だから「幼い」わけじゃないですね。

 

大人が「優れている」わけでもない。

 

知っているか、知らないか、だけ。

 

むしろ大人の方が「”知っている”に優位性を勝手に定義し、定義でがちがちで自分を縛り付けて、いいだの、わるいだと騒いでいる」

 

育児。

大変ですけど、どなたでも気づくと思うんです。

 

「あ。これ、”子”育てじゃない、、、”親”育てだ。。。」と。

 

子供からたくさん学べます。

子供は「本来」に近いので。

 

赤ちゃんも

「幼い」じゃない。

 

ただ「赤ちゃんという状態」

ただ、ただそれだけ。

 

生きている。

その生命。

無条件にかわいいと思える・・・これ、本来の姿ですし、

本来「大人になってもそうなれる」んですよね。

 

へぇぇ、、と思った話があって。

 

「犬って、見た目で年齢わかりませんよね?老犬っていっても、わからない。プロならある程度わかるかも、ですけど。実は、犬って”ありのまま生きている”から、細胞の再生スピードが人間より圧倒的に速いんです。

だから、人間も本来ありのまま生きていると、”老けている”とはならない。実際、いますよね?えーーー?あの人もう60歳なの???全然みえないーーー」

 

誰でも可能なんです。

老けている。

定義の世界で縛り付け、本来の自分にずーっとプレッシャをあたえ、根性や努力すること、我慢することが「そうなんだ」という世界・・・だから老ける、、、

 

と、、、まぁ、今日はあちこちいっちゃいましたけど。

「子供からこそ、学ぶ」

そんな風にみてみると、

 

看板の裏でかくれんぼする子供をみて、

「あ!そうか!」と気づくこと・・・

きっとあるんじゃないかなって思ってます。