ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

仕事も生活も、ぜんぶ思ったまま自由に生きる人

他人や社会を批判している?いえいえ。そう思ったら私の修行不足で。すべての体験は価値があり、誰も他人をジャッジする権限は1ミクロンもないって思っています

かとうゆうです。

 

カイシャ、学校、経済、政治。

未来からみれば、ぜんぶ、まだ「中世時代」なんて書いてきました。

 

役割と立場が同じ、上下

→本来は、役割と立場は異なる。立場は対等

 

指示と従属

→本来は、チームの話し合いや合意なき指示も従属もない(対等)

 

優劣

→本来、他者と比較して「自分以外」になる必要がない

 同時に、成長は他者との競争ではなく、自分自身のあり方の探求

 

しかし、ですね。

これ「中世時代」を批判しているわけじゃなくて。

 

え?そう聞こえた?

すいません、、、修行不足。。

 

大原則は

「すべての体験は、価値がある」

です。

 

今、この瞬間。

あなたは「オールザットイズ」「創造主の創造主」「宇宙そのもの」になったとします。

 

こうなると、あなたは「存在」すら認識できません。

ぜんぶ「包含」しているので。

 

成長しているのか?進化?どう?

ぜんぶ「包含」しているので認識できません。

 

同時に

「すべての体験は、価値がある」

 

ポジとかネガも存在しない。

ぜんぶ価値あるもの。

 

殺人、戦争。

これも、です。

 

逆説的ですが、

「魂の観点」にたつと、

それも「自分で選択、設定しているという価値」がある。

 

もちろん。

殺人、戦争、勧めているわけじゃないです。

 

なぜなら

「すべては”本当のシアワセ”」に向かって、成長進化しているから。

 

その過程で。

あるいはその人の選択、意味付けとして殺人、戦争はありますが。

やがてそうしたことはなくなっていく。

 

さて。

こういう「オールザットイズ」の観点。

 

社会がどうとか。

会社がどうとか。

他人がどうとか。

 

ぜんぶ「価値あるもの」です。

 

同時に。

ここが大事ですが。

 

ぜんぶ「自分が世界を作っている」ということ。

 

つまり。

 

「すべての体験は価値ある」と同時に

「価値があるかどうか?は、あなたの選択」だということ。

 

無数の「あなたの選択」

無数の「体験」

 

これがある。

 

ということは?

 

他人。

社会。

周囲。

世間。

 

ぜんぶ「どうであろうが、自分の選択次第」だということ。

 

それをどう定義づけするか?

どう意味付けするか?

 

その定義や意味を理解しているのは、「あなた」だけです。

 

それでいい。

 

ということは?

 

他人。

世間。

社会。

周囲。

 

「それがどういう状態であろうと、自分と”関係がない”」ということです。

 

たとえば。

 

バブル経済崩壊後の世代は「成功」を知らない、という定義。

 

これ「あなたとまったく関係ない」話です。

問われているのは「あなたは、どう意味づけしますか?」ということ。

 

他人の言動。批判とか。

 

これも「あなたとまったく関係ない」話。

問われているのは「あなたにとって、それが起きた理由を、あなたの中に探せていますか?」ということ。

 

無数の「体験」

無数の「あなた」

 

それぞれが、必要だから「選択・定義」しているわけです。

 

だとすると、それに対して、あなたが

・遅れているとか、進んでいるとか

・優れているとか、劣っているとか

そういうジャッジをする権限は、一ミクロンもないということ。

 

貧しさ。

 

貧しさも「それを通じて何かを学ぶ。そういう状態を通して周囲に気づきを与える。」そんな意味があるかもしれません。

 

どんな状態も。

ぜんぶ、自分が起こしている世界で。

起きている理由は「進化、成長」のため。

必要だから、起きていて体験している。

 

だとすると。

 

ジャッジする必要ありませんね?

 

あなたは、ただ、ただ

「自分の世界を、自分らしく、楽しく、生き生きとする」こと

 

これを実行するだけです。

 

その過程で、必要ならネガっぽいこともあるでしょうが、それも必要なこと。

つまり「ぜんぶポジティブに解釈可能」だということです。

 

ということで(?)

 

「中世時代」なんて書きましたけど。

 

批判しているわけじゃないんです。

ただ、明らかに「新しい時代」が到来している。

 

だから、自分なりにシェアはします。

だけど、それをどう受け止めるか?はお任せ、です。

 

関与しませんし。

強制も、矯正もしません。

 

なぜなら「すべての体験には価値があるから」

 

同時に「その人の選択したことに対して、ジャッジする権限は自分には1ミクロンもない」ということ。

 

なーんて、いろいろ書いてますけど。

まだまだ修行中なんです、私。

 

昨日も。

「あ。そうだ。他人をジャッジする権限はないっていいつつ、”自分をジャッジ”してた」なんて気づきまして。。

 

自分の言動を

・優れている、劣っている

・よい、わるい

なんて、ジャッジしてた!と。

 

私、結構繊細さんなので、いろいろ気になる。

気になる自分が「いけてない」

 

なんて思ってましたけど。

「やばい!いけてない、っていうジャッジを自分にしてた!」

 

と気づきました。

 

「気になる?、、、いいじゃない!それが私だからね。私らしくていいや!」

 

そう思ってます。

 

それでは今日はこのへんでー!