社会のあり方が問題だっていう想いは、それによって”社会が問題だ”と自分が思うような場面を繰り返し創造しちゃうんじゃないか?と思った今朝
かとうゆうです。
わりと断続的に、でもずっと考えいたことがあり。
なんとなく「回答」を得た気がするので、書いてみたいと思います。
これまで結構「繰り返し」の場面が続くと感じてまして。
特に、企業とか組織の
・上下、階層関係
・優劣判定
・男性=メイン、女性=サポート(夫唱婦随がよい的な)
とはいえ比較的フラットな企業・組織だったので「深刻」や「差別」まではいかないのですが
しかし「やっぱり、まただよ」という「繰り返し」
それでやっぱり
・ティール組織のような全員対等な組織
・ノーレイティング評価のような他者比較をしない判定
・男女区別のない職制(たとえば、総合職=男性、一般職=女性みたいではなく、総合・一般の区別も、男女区別もない職制)
こういうのが未来のあり方だと痛感してきましたが。
なぜか、程度は深刻じゃないものの
相変わらず「繰り返し」の場面に遭遇するな、と。
いろいろ「手放そう」「気づこう」としてやってきましたが
相変わらず「繰り返し」
で、、、、今朝、ふと気づいたんです。
「社会のあり方が問題だっていう想いは、それによって”社会が問題だ”と自分が思うような場面を繰り返し創造しちゃうんじゃないか?」と。
誤解なきよう補足しておくと、
・すべての人が対等
・ひとりひとりが価値ある存在
ゆえにティール組織やノーレイティングは重要だし、目指す方向・・・その認識は変わらないです。
でも、「だから、それをなんとかしないといけない!自分なりにできることをやるんだ!」という想いは、
一歩間違うと
「不干渉」の原則に反することに
つまり
・他人を変える
・他を変える
というエネルギーを生み出すことになる。
こうなると、もはや「自分以外の誰か、何か」に焦点があたってしまうので、引き寄せにしてもなんにしても、思うように自分の世界を創造することができなくなってしまいます。
他人の意見は尊重すれば十分で、それについて変えるとか、憤るとか感情を持つのは、「他人の世界を自分に持ち込む」だけ、ですので。
「私はこう思いいますけど、あなたはどうですか?・・・なるほど、それがあなたの選択ね。わかりました。私はもっとこうしたら?というのはありますが、でも、その選択も意味あるものとして尊重します」
これが「不干渉の原則」
なぜならポジだろうが、ネガだろうが、すべての体験は、高次からすると「価値ある体験」だからです。
なので、「社会が問題だ!」について
気がつかないと
「薄氷を踏みて、堅氷にいたる」ようなもので。
だんだん堅い氷みたいになってしまって。
その結果
「それが問題だ!」という状況自体に、繰り返し、自分が遭遇すること
視点を変えると
「それが問題!」という”問題”自体に、エネルギーを与えること
これになりかねないな、と。
っていうのか、今までなってました(汗)
とはいえ「そうである」ということは、その通りなので、絶妙なバランスが必要です。
「社会が問題!」・・・それ自体を「みない、きかない、いわない」・・・っていうのも極端だし。
でも、「社会が問題!」と想いすぎて「他人を変える」になるのも極端。
「それはそれ、これはこれ」的な整理は必要だと。
なので、社会について、今後一切ブログで書かないとか、そういうことじゃないです。
私なりの所感ですが、それでもその所感によって「気づく」こともあるかもしれませんし、なによりこうしてシェアさせてもらえること自体が、とても「自分らしい」瞬間だからです。
「シェアはする。だけど、他人の選択は尊重する。」
これが原則。
というわけで、これからもブログでいろいろ気づいたこと、「こうした方がハッピーなんじゃないの?」というのは、どしどし書いていきたいと思いますが、
「だから、変えない限りだめだ!」的な論調で書く必要はないな、と。
アセンションにせよ、パラレルシフトにせよ
「自分が、まずその世界に、シフトする」が、一番大事な、そして一番貢献できることだと思うので。
と、、、わかったように書いておりますが、しかし、
まだ「手放す」「気づく」が残っている気がしなくもないですが、
「根幹に気づくと、関連するものも自然に外れてくる」
というのも自然の摂理だと思うので、
今はこのことに気づけたことで十分だと思っています。
というわけで(?)
「それはそれ」
ということで、昨日書いた通り、自分ができる「作品」を創っていくことに焦点を当てていこうかと思っています。
それでは今日はこのへんでー!