かとうゆうです。
Arahabakiさんのこちらの記事。
すごく知的刺激を受けてしまいました。
メタバースって、それが暗示することってすごく深いと思ってます。
単に「便利」ってだけではなく、
実は「私たちが、リアルだと思っていたことは、本質的にバーチャルなんだ」という気づき、ですね。
生活で身近で、リアルに存在し、パワフルだと思っていたことも「仮想」なんだ、と。
ちょっとメタバース自体からは飛躍しますけど、たとえば「お金」ですね。
貨幣。
もう「仮想」になってますね。
キャッシュレス当たり前です。
冷静に考えると、実態のない「電子記号」
これに「量的判定」を加えているわけです。
「電子記号に量的を付与して、交換条件とする」
本質的に表現すると、ただ、これだけのことをやっているともいえます。
お金ってつい「優劣」を示すと思いがちだと思います。
お金持ち。
給与のいい仕事とそうではない仕事。
でも私たち人間が生活し、表現することって「本質的対等」ですね。
差なんてないです。
だけど「優劣」
資本主義の原理は「競争」
つまり「他者と比較し、優劣を判定する」
そのエネルギーで、生産し、規模的拡大をしていく・・・という原理です。
で、「優劣を判定」する基準に、お金という「紙切れや電子記号に量的判定を付与させている」わけです。
でも、量が多いとか少ないって、資本主義からみたら「意味がある」ことかもですが、人間として「意味はない」ですね。
考えてみると、私たちは「競争」「他者との競争」を運命的に定義されている。
でも、人間、そして自然も動物もそうですが、本来は「競争も優劣」もないです。
ネコが「おれは犬より価値がある」なんて思わないです。
ネコはネコとして「あるがまま」生きている。
人間も本来「あるがまま」「その人らしく」生きる。
これが根本ですね。
でも、資本主義ってもので「競争と優劣」を定義される。
学校でも会社でも「当然」と感じてしまうかもしれませんが、不自然・・ですね。
そもそも「進化と競争」っていう概念は別物です。
進化のために競争は必須ではないです。
進化の原動力は「シアワセになりたい」「自由に”らしく”いきたい」です。
(他人より、優れているとか、成功するっていうエネルギーもときに”進化”的なものを生みましたが、数百万年単位でみると、これかな、と)
だから、もうほんとにぶっとんでいってしまうと「競争と優劣」がいらない社会がほんとに目指すべきものなのかな、と。
共産主義でも資本主義でもない社会のあり方って、きっと存在するんだろうなーと思ってます。
たとえば、さきほど「お金」から「量的判定」をとってしまう。
単なる交換履歴の表現として「お金」
買うものと、買われるものの価値は「その人にゆだねる」
今も、「お助けシェア」なんてものありますけど。
「家の芝刈り手伝ってくれたら、りんごあげますー!」とか。
これ「物々交換」概念ではないです。
物々交換も「量」的判定ありますから。
ではなくて、「量が多いかどうか?はその人の、そのときの気持ちで決めればよい」
あとは「交換してもいいものをお互いに納得してやればいい」
そして、こうした交換が、無数にあらゆるものに行き渡ると、「量的交換性・優劣」はなくなる・・・かも、、、とか。
あるいは今、スキルシェアってありますけど、たとえば「いいね!」の数を「量的判定」にしちゃう。
で、その「いいね!」で、いろいろなものを買う。
そんな社会。
(もちろん、悪意あるものに対抗する何かは必要ですけどね。。)
いやぁ、、、ぶっとびすぎというか、妄想レベルですね。
私もそう思います(笑)
でも、なんとなく言いたいことのニュアンスが伝わるとうれしいなーと。
とにかく「お金・競争・優劣」っていうのは、人為的に作り出しただけで、生命の本然からすると「不自然な状態」だと確信はしてるんです。
とはいえその代わりに?・・・となると、さきほどのようにぶっとびすぎて、突っ込みどころ満載しかないんですけど。
今、いろいろな人が「資本主義を見直す」という議論してます。
少なくとも、私は今こそそれを見直す時期だ!と思ってます。
そして、アダム・スミスもマルクスもエンゲルスも、その出発点は「素朴な疑問」から出発してます。
もちろん私がそんな思想家になるとか、そういう話ではなくて、「あれ?これって自然なんだっけ?」そんなふうに、いろいろな人が気づくことが大事だし、その気づきは、何かとんでもない天才とかそうじゃなくてよい。
むしろそんな天才とかではなく、普通に生活し、普通に生きている私たちの「素朴な疑問」を素直に感じる感性こそ、はるかにパワフルだろうなーと思っています。
そんなこんなの話を、どこかでコミュニティつくって話し合ってみる機会つくりたいなーと思っています。
それでは今日はこのへんでー!