理想の教育で大事なことは、会社でもどこでも大事なこと
かとうゆうです。
引き続き、妄想です(笑)
今日は、理想の教育です。
社会のパラダイムが変化していることを書いてきました。
「集中・組織」から
「個人・多様」です。
なので、教育も「個人・多様」がキーワードになります。
そして「個人・多様」という、ある意味「社会的・自己的表現」をするには、基盤となる考え方が必要です。
「すべての人は対等である」
これ本当に重要です。
「身分制」というのは世界的にも多くの国や地域で制度的にはなくなりましたが、その「要素」はまだまだ色濃いと思っています。
たとえば「会社」
上司・・・なにか上司からいわれて「え?」と思っても、言葉を飲み込んだり。
部長、役員、社長・・・
「えらい人」という表現を使ったりしてます。もちろん身分が高いとかっていうわけではじゃないですが、社長からいわれて「え?」と思うと、上司以上に「言いづらい」
あくまで実態的には・・・という話ですが、わりと江戸時代の身分制のような「受け止め」をしがちな局面があったりします。
もちろん誰も「身分」が高いなんて思ってないし、礼儀・礼節の範囲で理解していることなんですけども。
でも、違う意見があれば「私はこう思う」というのは、相手がどのような役職であれ、別に表明することはなにもおかしくないし、「こう思う」という意見それぞれを話し合うのも自然なことですね。
でも「社長にいったら、目をつけられる」とか。
これ、こういう構造になっていると思っています。
「役割」と「個人」が一体になっちゃってます。
本来、役割は、人の個性。ファッションでなんでもそうですが「違い」を意味するだけです。
しかし「違い」に、さらに追加して「個人の優劣」が加わると、結果的に「身分制」があるかのような圧力がかかりやすいです。
まぁ、、、、そんなに神経質にならなくても、、、というところですが、、
「個人・多様」の大前提・基盤として「すべての人は対等である」というのは、本当にしっかりと理解しておかないとなんか違うかも、、というときがあるんです。
世界は「競争」前提ですね。
資本主義はその定義が前提です。
会社も、学校も、「競争」「優劣」
なので上司とか社長とかが「エラい人=意見とかあまりいっちゃいけない=できるだけ「従う」という形でハレーションを起こさないようにする」という構造が横たわってしまいます。
しかし社会は、もう「個人」単位ですね。そして「個人が無限につながる」
複雑というか、フラクタルというか、「特定の人がすべからくすばらしい判断ができる」わけではないです。
そしてティール組織のような「全員=経営者」の企業が実績をあげ、世界的にはトレンドになりつつ、ある。
「多様な人が集まって、多様な視点で話し合う方が、はるかにパワフルな付加価値を生むことができます」
そして、生命としての人間にとって「競争」は、本質的に成長の原動力にはならないと思っています。
競争とは、他者比較ですね。
他者比較するということは「自分以外のモデルが設定され、それに合うか合わないか?」です。
しかし「すべての人は対等である」ということは、「自分以外のモデルを設定する」必要は本質的には不要だと思っています。
北欧など「すべての生徒が対等」を前提にした教育では、テストも内申もなく「自己評価と対話」です。
それでも教育水準はトップクラス。
学問の結果を覚えるよりも、「学問する楽しさや意味を理解する」方が、はるかに子供たちの可能性を広げることができます。
なので、人事制度にしても、学校にしても「他者比較という意味での”競争”は、その人の本来的力を発揮することにはならない」と思っています。
これすごく微妙な表現なので、言葉を添えておくと、
「スポーツの競争」
これ「競争」ですね。他者比較です。
でも、人としての「優劣はありません」
仮にかけっこが遅かろうが、1位じゃなかろうが、「人としては対等」ですね。
ですから、実は「スポーツ」では、私たちは「他者比較して競争し、優劣をつけることをしていない」んです。
「人としては対等」だけど、みんな記録や順位を目指して、すごくがんばっています。成長しています。
そして負けても、順位が届かなくても「人として成長します」ね。
学びがあるからです。
スポーツの世界で、仮に偏差値や内申があって、それを判定する人がいて、優劣つけたりしたら、「すごく変」ですよね。
あくまで「競技としての優劣」だけですね。
だから高校野球なんてそうですけど、負けたって、みんなから温かい言葉たくさんもらえますし、言葉をかける人も「人として劣っていた」なんて思いません。
だけど、会社や学校って、なぜか「優劣」判定があるんです。
そして「エラい人」「頭のいい人」というレッテルが貼られる。
そして、それぞれに対する言動も異なってしまう。
というわけで、、、なかなか「理想の教育」に話しがいかないなーというところですが(笑)
もう根本的なことは、語ってしまいました。
「すべての生徒は対等」
「違いはあるが差はない」
「あるモデルを設定して、合う合わないをする必要はない」
こうしたことが学校でも大前提としてあるべき、だと思っています。
そして「先生と生徒」の関係も、です。
先生=優れた人・・・と設定してしまっては「すべての人は対等」ではありません。
確かに社会的知識は先生が多くもっている。けど人としては「変わりがない」
なので、一方的、抑圧的に「先生の話はよく聞くこと」「先生が話していることをさえぎってはならない」「両膝に手をおく」といった価値観は、それ自体がどうこうというわけではなく、気をつけないと「優劣判定」を与え、まるで会社と同じように「エライ人とハレーションさせないようにする」というエネルギーが働いてしまいます。
会社と同じように「先生」という役割と、「人として・・・」は別の話です。
逆に「先生」「上司」は、役割=優劣判定があるために「すべからく優れた判断をしなければならない」というプレッシャーにさらされます。
なので「苦しい」場面が多い。
ぜんぶ背負うわけなので・・・先生は、もう生徒のあらゆる場面について、上司はメンバーの働き方から評価までぜんぶ「背負う」=優れた、正しい判断をしなくてはならない、というプレッシャーですね。
別に先生だろうが、上司、社長だろうが「わからないことは、みんなにきく」「苦手なことは、みんなに頼る」でもいいはずなのですが、そんなことをすると往々にして「あの人、丸投げしてくる」「無責任」とか批判されちゃったり。。
なので優劣判定は「優れていると判定された人も、そうじゃない人も、すべて他者から与えられた”定義”によって苦しむこと」になりやすいです。
理想の教育・・・というテーマでしたが、もう本当に「モデル設定」「他者比較と優劣、そして競争」ということを、可能性をたくさん持っている子どもに定義してしまうことは、本当に私たち社会にとっても大きな損失です。損失どころから可能性や「あなたらしさ」まで奪い兼ねないですね。
でも、最近「いいなー」って。
校則とか生徒で話し合って決める学校増えているみたいですね。
これほんとうにすごくいいな、って。
生徒も先生も同じ立場で「みんなにとってよいルール」を考える。
なのできっと「あ、これならいいんじゃない?」っていう制度とかあり方がどんどん出てくるということを期待しています。
それでは今日はこのへんでー!