ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

仕事も生活も、ぜんぶ思ったまま自由に生きる人

的外れな意見をいうのが怖くて発言できない?・・・う~ん、、、社会の定義によって、そう思ってしまっているのね、、、あなたはあなたなのに、、、

かとうゆうです。

 

今、とあるプロジェクト支援をしてます。

 

で、やはり機会が多いのは「ミーティング」ですね。

 

ディスカッション。

 

でも、よくきくんですよ。

「的外れなことはいえないから、なかなか・・・」なんて。

 

発言控える。

 

あー、、、これも学校教育の犠牲というか、そういう訓練を受けてしまった代償なんだ、、、と。

 

ますます今の教育のあり方が、サイテーレベルだなって、思ったり。

 

「的外れ」

 

ディスカッションにおいて、

そもそも

「的外れな意見、というのは存在しません」

 

ないんです。

仮に、本人が”的外れ”・・・と思っていても、その意見があるから

・論点が明確になる

・論点が修正される

 

ディスカッションというのは、多様性の中からエクセレントなものを生むプロセスなので、

どんな意見も、対等だし、

どんな意見も、価値がある

 

これが大前提。

 

なので「的外れ」は、存在しない。

 

でも、

「的外れはイヤ」

 

これ、教育ですね。

 

正しい、正しくない。

この世界。

 

今の世界は違うんです。

 

正しいかどうかは本人が選択する

なので「正しさ」は人の数だけ存在する

 

これなんです。

だから、ティール組織にしても、ダイバーシティにしても、

「何か特定の言動を、優秀と判定しても、それ以外を”劣る”と排除する」ことに気づき始めている。

 

確かに、数学など学問では「正しい」があるかも、です。

でも、ですね。

数学だって、応用になればなるほど「正解はない」

 

だから世界中で学者が研究している。

 

正しい、正しくない。

 

で。

「正しい」を連発する人を「優れている」と。

 

こんな世界じゃ、

「正しくない」・・・自己否定ですね。

 

「自分は足りない」になる。

 

だって「正しいを連発しないと、”優れている”」にならない。

 

アイデンティティは本来自分で自覚するものなのに、

いつしか

テストの点数とか他人の評価とか

「他人」になっちゃう。

 

だから

「的外れはイヤ」になる。

 

もちろん1+1=2だよ、という「正解」を「覚える」のも大事ですが、そうじゃなくて「みんな、ひとりひとりなんだよ。可能性はたくさんなんだよ。」ということを教育現場でどれだけできているか?・・・

 

結局、テスト。

内申点なんて、最悪ですね。

 

「リーダーやったら、何点」

え?じゃあ、リーダーやれない人は・・・

 

そう、

「劣る」になりますね。

 

そんな機械的モデルに、みんなを向かわせている。

 

運動会だって、どんなイベントだって、ほとんど大人たちが「勝手に決めて」、それをなぞるだけ。

 

運動会。競技内容から、テーマまで、学生主体でできますね?

 

おまけに「服装統一」

軍隊じゃないんですから。

 

靴下は、、髪型は、、、とか。

まだ、そんな戦時中みたいなことに美徳を感じている。

 

リーダーができて、先生のいうこときいて、出席ぜんぶできる・・・そんな機械に向かわせるために、

 

テスト、他者評価。

 

「優れている」「劣っている」

 

そして「服装統制」

 

この訓練を、ずーーーっと受けてしまっている。

 

「的外れ」・・・存在しないんです。

 

あと

「私は、”足りない”」

 

足りない・・・っていう概念を、いまの教育は徹底的に教えますね。

先生=優れている

生徒=稚拙

 

点数が高い生徒=優れている

以外は、劣っている、足りない。

 

稚拙、、、足りない、、、、

これで、ずーっと訓練。

 

 

足りない、、なんてないんです。

 

あるのは「知っているか?知らないか?」

社会の仕組み、お金のこととか。

 

でもそれは「知れば」、完了。

それだけ。

 

 

そして

「知っている、知らない」に、なにも優劣はないですね?

 

私、あそこのラーメンすごいうまいの、知ってるんだー!

へぇぇ!

 

それだけ、ですね。

 

なので、

「足りない」「稚拙」「劣っている」

逆に

「優れている」

 

この判定は、そもそも本質的に意味を持ってないんです。

 

そして、そういう時代になっている。

 

でも。

教育。

 

特に日本。

 

もうほんとに「硬直」「旧世界」「軍隊」

 

ディスカッション。

的外れかどうか?なんてどうでもいい。

 

大事なのは

「らしさ」

 

あなたらしい発言、意見。

 

これが、たくさんあって、それぞれ理解を深めることで、すばらしい価値が生まれる。

 

 

日本は、GDPもどんどん低下。

教育水準

賃金水準

幸福度

生産性

ぜんぶ、先進国最低。

 

これ、、、やっぱり、ですね。

長期的には、今の教育をなんとかしないと、ほんとにいけないなって。

 

個性を大事とか教育でいわれます。

実現は全然できてないけど、課題感はある。

 

でも、その課題感どころじゃないんです。

 

根底のパラダイム自体を変える必要性にどれだけ気づいているか?

 

これは、ほんとにアセンション、二極化じゃないですけど。

ほんとに気づいて行動している人と

そうじゃない人は、

 

ほんとにどんどん二極化していますね。

 

 

で、、、お気づきの通り

「企業」

 

これも同じですね、、、

 

正しい、正しくない

優れている、劣っている

 

この世界。

 

でも世界は、ティールとかノーレイティングとか

「階層なし、全員対等」

「他者比較、点数評価なし、自己評価とオファー」に

どんどんトレンドが変化している。

 

でも相変わらず

目標管理制度

目標設定面談

上期評価

下期評価

査定

昇格、昇進

 

なにか特定の言動を「優れている」とし

それを「点数」で評価する・・・

 

結局、今の「旧世界教育」と同じ。

 

生産性、賃金最低?

そりゃ、そうですよ。

 

今の時代に、産業革命、植民地時代と同じようなことをやっているんですよね。

 

まして、ですよ。

ジェンダーギャップ。

 

ありえないですね。

 

女性、男性。

これ「属性」です。

 

「あなた」じゃない。

 

女性といった瞬間に「定義」

 

女性は家庭だ、女性は育児だ。

 

「あなた」じゃない。

 

この論理は「村社会」

 

奈良時代のような社会定義がまだ「残存」

 

日本は「歴史の深み」はありますね。

わび、さび、とか。

そういう文化。

 

そこはキャラクター。

 

でも、「優劣」しちゃう。

 

日本民族は!」みたいな。

 

で、そんなことを言い出して、やったのが太平洋戦争。

 

「優劣」はない。

 

日本も、どの文化もキャラクター、「深み」がある

でも優劣はない。

 

日本は数千年の歴史

アメリカは数百年。

 

だから?ですね。

 

日常生活でも「優劣」「正しい、正しくない」が行動原理になっていたりする。

 

自分で勝手に「これが優れている、正しい」なんて定義して、「自分はそれを体現している」という勝手な自覚に美徳。

 

で、店員には「クレーム」

上から目線。

 

二極化って、ほんとに、すごい距離あるんです。

どんどん離れていっている。

 

たぶん、、ですけど。

今はまだ私も、こうやってああだこうだ書いてますけども、

そのうち「書かなくなる」日がくるんだろうなって、思ってたりします。