ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

仕事も生活も、ぜんぶ思ったまま自由に生きる人

自分は「経験や能力が”足りない」と思っていますか?・・・・実は「すべて、生まれた瞬間から”足りてます”」、そう思わせているのは、この人為的社会通念なんです。

かとうゆうです。

 

20代、たぶん前半の若い人の言葉

「経験が足りないんです。」

 

あれ?

と思いました。

 

経験とかスペック的なものが「足りない」

 

うーーん、、、違うと、私は思うなーと。

 

「すべて足りている」

 

私はこう思ったんです。

 

「すべては足りている」

 

生まれた瞬間から、です。

 

例えば赤ちゃんは

・社会的知識

・表現方法

 

これは「足りない」

でも、これは

単に「知っているかどうか?」だけです。

 

「本質は変わらない」「本質は足りている」

 

お腹が減ったーー。

これは大人も赤ちゃんも同じ。

 

でも、赤ちゃんは、社会的知識とか、表現方法を知らないから

「ラーメンが食べたい。店にいきたい!」とは表現できない。

 

泣くだけ。

 

でも、「お腹が減った状態に対する認識と反応」

これは同じですね。

 

楽しいとか、うれしいときも同じです。

 

社会的知識とか、表現方法は

「単なる、”知っている”」というだけに過ぎません。

 

それを「知らないから、劣っている。稚拙である。」

ずっと、そんな風に社会は定義してきました。

 

だから、学校。

「”優れた”先生が、”稚拙な”子を教える・指導する」

 

こういう上下関係になります。

 

冷静に考えてみてほしいのですが。

例えば「運動会」

 

課目から順番その他まで、「全部、”優れた”先生」が決めて、

生徒は「従う」

 

これ、冷静に考えると

「おかしな話」です。

 

わざわざ子どもも自主性

友だちと話

意見を尊重し

自分の意見を伝える

 

こうした「本質的な体験」を、わざわざ「カット」している。

言葉をあえて、どぎつくすると、よくわかります。

「小学生だろ?ぜんぜん判断できないんだから、すべてこっちに任せろ。お前たちは、いわれたことをいわれた通りにやれ」

 

、、、ちょっとどぎついですが

エッセンスは同じですね。

 

上下関係

 

一方。

息子の通う学校は

「すべて生徒主体」です。

 

・スローガン

・競技課目

・舞台などの演出

・当日のアナウンス、誘導

 

ぜんぶ、生徒が話し合って決めます。

 

そして「できます」

 

先生は、危険やリスクをみるくらいで、

「当日も、ほとんどなんにもしません」

うろうろしているから、保護者のおっちゃん、おばちゃんと区別がつかない(笑)

 

でも、この運動会。

「めちゃ盛り上がります」

 

よく最初。

校長先生の挨拶とか、来賓とか。

そんなのありませんので。

 

校長も確かに発言するけど、「脇役としてちょっと」です。

 

基本は「生徒」

委員会が開かれ、委員長やアナウンス担当が

「まるでDJのように話し始めます」

 

「すべて、”優れた”先生が、決定してしまう運動会」と

「すべて、生徒とも、ある意味先生も”対等”に、話し合って作り上げる運動会」

 

どちらが「生徒の教育」にとって、

本質的に「大事」かは明らかです。

 

ただ、ですね。

あくまで例としてわかりやすかったので、息子の学校の話をあげましたけど、別に「この学校が理想」とかって思ってないです。

 

選択肢のひとつですし、

子どもによって「合う合わない」ありますから。

 

なので、何か自慢したいとかっていう気持ちではなく、

 

とにかく

「子どもは”こども”じゃない」っていうことをいいたいために書きました。

 

さて、多くの学校。

運動会からなにからなにまで「”優れた”先生が決めて、生徒は従う構図」ですが、

こうした上下構図。

 

これを分解すると

「役割と立場が一致=役割が上の人は優れている、従うべき人」

これ、ですね。

 

「役割と立場は違う」んです。

 

会社や団体、組織。

 

役割はいろいろあります。

社長から課長とか。

 

でも「立場は”対等”」

 

だって「人として対等」ですから。

 

どんなに功績をあげた「上位者」だろうが、

別に「人として対等」です。

 

「功績あげた=優れた人=従うべき存在」

こうした「役割と立場が一致した」状態は、学校から企業、政治や宗教その他、あらゆるところに横たわっています。

 

でも、これ

「おかしな状態」なんです。

 

現に「管理職のいない」ティール組織が実際にでています。

 

少し話を戻すと

「子供は”こども”じゃない」

 

生まれた瞬間に、「人として必要なものは、すべて”足りている”」んです。

 

だから、「経験が足りない」というのは、「思い込み」です。

 

ちょっとどぎつくいうと

「奢り」かもしれません。

 

経験しないと、成長できないっていうことになると、

 

これだけ、社会のスピードが増し、複雑化している中

「自分が経験と定義できることは、限られています。」

 

そもそも

「経験は、自分”だけ”に蓄積している必要はありません」

 

すべての人が、唯一の価値を持っています。

 

であれば、

「その人の意見を聞く、アイディアをきいてみる」

 

経験とは「自分も、他人も含めて蓄積できます」

 

さらに。

社会的知識は、先ほど学校の例を出したとおり「思い込みの定義」だらけです。

 

確かにそれを「知っている」と、「学校的良い子」にはなれますが、

他人が定義した「良い子」になることに、なんの意味があるのでしょうか?

 

もちろん交通ルーツや、刃物のと扱いなど「知っている」必要がありますが、それも

「単に知っているかどうか?であって、人としての価値や能力には無関係です」

 

なので、冒頭の

「経験が足りない」

という言葉をきいて

 

「やっぱりまだまだ、この社会は”優劣”、そして”他者比較”」という中世のサバイバルロジックから離れられていない。

 

なにより、こうした若者が「足りない」と思ってしまう、学校や社会というのは、やっぱり変えていかないと

 

本当の意味で

「すべての人が価値ある存在、そしてその人唯一の価値がある」

 

これを体現したとはいえないな、と思いました。

 

とはいえ、学校でも「偏差値廃止」「校則廃止」とか動きはでてますね。

偏差値が高くないと、いい大学、いい企業に入れない!なんていったら、

 

偏差値も内申もなく、生産性トップクラスの北欧諸国の人に、笑われてしまいます。

 

これ、いらないんです。

優劣判定をつける必要がないんです。

 

企業でも、あなた以外を目指す必要はなくて

「あなたらしさ全快であるかどうか?」

 

これが大事です。

 

さて。

アセンションといわれます。

 

10年もかからないかもしれません。

この地球がどう変わっていくか、楽しみですね。