ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

仕事も生活も、ぜんぶ思ったまま自由に生きる人

障がい、理想の人材、よい子、先進・・・ぜんぶこれ社会の勝手な定義なので、まったく意識する必要も気にする必要もないという話です

かとうゆうです。

 

今日は、あらためて。

すべての人が、生き生きできる社会は必ずくる」です。

 

NRIのレポートみて。

はっ!」としたんです。

 

デジタル社会における発達障害人材の更なる活躍機会とその社会的インパク

www.nri.com

 

発達障がいの人でも、ITスキルがすごく高い人は、マイクロソフトなど「高度IT人材」として活躍している、と。

 

結局。

結局、、、なんて言葉を使ってしまいますが。

 

「社会が”働ける人”を定義」しちゃってるんですよね。

 

たとえば私は軽度の身体障がい。

一般応募だと転職も普通。

障がい者枠になったとたん「補完・事務・低い給与」です。

 

障がいっていってもいろいろありますよね?

でも。

 

ぜんぶ「障がい者」で、ひとくくりの待遇。

 

健常者と障がい者なんて言葉ありますけども。

 

あれも「勝手に社会が定義」しちゃってるんです。

 

本来、全員「健常者」です。

 

私みたいに右足が曲がらないとか。

性格がちょっと繊細すぎるとか。

 

まぁ、いろいろありますけど。

 

単なる「違い」

「特徴」ですよね?

 

だけど社会が定義しちゃう。

「この人は健常者。この人は違う。」

 

よく考えてみると。

学校もそうですね?

 

「先生のいうことをきいて、挨拶できて、友達たくさんいて、仲良くできる」

これが、ある意味「理想像」

 

それに合わないと「ルール・規範」でコントロールする。

 

会社も同じですね。

 

社内に誰もいない「理想の人材像」

これに合う合わないて、評価。

 

でも理想の人材っていうのがもしあるなら(私はあるがままでいいと思っているので、理想みたいな外にはないと思っていますが)

 

もし理想の人材像があるなら「100人いたら100通り」じゃないでしょうか?

 

でも、1個か数個設定して、合う合わないで、評価。

 

生活もそうですね。

わりと「先進国的」が「優れている」

そうじゃないと「後進的」

 

先進とか後進とか。

これも勝手に定義している。

 

たとえばアボリジニの原住民とか、少数民族アイヌ、インディアン・・・

未開なんていわれてますけど、精神的にはるかに「悠々」と生きているし、精神性も高い。

 

健常・障がい

よい子・悪い子

優れた人・そうでない人

進んでいる・遅れている。

 

これ、、、ぜんぶ「社会が勝手に定義」しているだけ。

 

だから発達障がいの人だけじゃないですね。

不登校とかひきこもり。

学校が嫌だって感じた人。

 

ある意味今の「硬直的学校」が嫌いというのは、むしろ健全でもあります。

 

もっというと

LGBTqも。

女性・・・ジェンダーギャップも。

 

そうですね。

勝手に「区別」している。

 

家庭のあり方。

結婚するかしないか。

こどもをうむかどうか?

 

ぜんぶ、そうですね。「区別」

 

社会は様々に定義をして、結果的に「すべての人が生き生きできる社会」から遠ざかっている。

 

でも。

同時に

「私たちは気づき始めている」

ですよね?

 

「不自然・おかしい」と。

 

学校で素朴に感じた疑問。

会社で感じた違和感。

生活で感じたギャップ。

 

そして「ダイバーシティ」という概念への注目。

 

気づきはじめている。

 

だから私はきっと「すべての人は、価値ある存在。人としてすべて対等」の時代がくると確信しています。

 

なぜなら、私たちは意識するしないに関わらず、「自分なりにできること」をすでにはじめているからです。

 

趣味でも。生活でも。

ほんのちょっとした日常。

 

そして日常こそ、すべての変化の原動力。

なぜなら、「世界は”あなた”自身だから」

 

それでは今日はこのへんでー!