ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

仕事も生活も、ぜんぶ思ったまま自由に生きる人

ひとりひとりが価値ある存在なら、「エラい人」もいないし、「エラい人」が膝をおって「謙虚」である必要すらないという話

かとうゆうです。

 

今日は、今日も(?)、話があちこちいきそうですけど。

 

アセンションとは

「ひとりひとりが本当の意味で価値ある存在で、対等」だというパラダイム

 

「ひとりひとりが対等」って、わりと会社とかでもよく聞くフレーズですけど、

根底にあるパラダイムそのものを「変える」ということをしないと「本当」じゃないです。

 

そして「本当」にたどりつかないので、いろんなことが「変わらない」

なんとかプロジェクトだの様々な社内プロジェクトやっても「変わらない」

 

今は「中世」だと。

上下階層。

優劣判定。

競争のための他者との比較。

 

さらに日本でいうと

「点数主義」

学校のテストからSPIまで「点数化」

 

数字になると、なにかそれが「あたかも確定的」であるように感じるけど、

実際に表示される「数字」は、もう「人間らしさ」の微塵もない、なかばデタラメなもの、、、

 

たとえば、

会社。

社長でも事業部長でもいいんですけど。

「私は対等だから、誰でも意見聞くよ」と。

 

で、実際に「そうだ」と。

 

でも、これって

「謙虚さ」ではあるけど

「本当の対等」じゃない。

 

つまり、

「エライ人である自分が、膝を折って話しを聞く」という「謙虚」だというだけです。

 

膝なんか折る必要も、折られる必要もない。

 

だから

「肩書き」と「立場」は「まったく別」なんです。

 

ところがこれが一致している。

 

「肩書き」に見合う「立場」という

「箱」に閉じ込めて、その「箱」の定義に従って、人間をコントロール、制限しているだけ、です。

 

肩書きと立場は別。

社長だろうがなんだろうが、

年長者だろうがなんだろうが、

「別」

 

「対等」

 

これ、もう身近なわかりやすいシーンでいうと、

「会議」

 

会議終わりました、と。

みんな席を立ちます、と。

 

で、座席を元に戻します、と。

 

で、座席を元に戻す人は

「本当に対等」なら、

 

「誰でもいい。できる人がやればいい」ですね?

 

ところが

「若い人」とか

社長だの部長は、さっさとドアの向こうに消えて

若い人やら「肩書きが”下”の人が、いそいそと片付ける」

 

これ、

「身分社会」です。

 

身分。

 

会議の席の片付け。

別に、社長が動けるなら動けばいんです。

別に。

 

でも「優劣判定」ありますね。

「片付け」ってのは「下の作業だ」と。

 

だから「肩書きが下の人がやるのが自然だ」という

へんな優劣判定が横たわっている。

 

これ、ささいなことなんだけど、

パラダイムが「変わる」なら、このささいなことも「変わる」

 

私が最初に入った会社は、少し「パラダイムの変化」に”近い”、、近い、ですよ、あくまで、

 

で、「近い」ところがあって。

 

会議の資料配付。

社長がやってました。みんなと同じように、「自然」に。

 

キックオフ。

ありますね?方針発表会。

普通に手があがってました。

 

「えーと。方針ってことなんですけど、それちょっと違うと思うんですよね。」と。

入社3年目くらいのプロパーが。

 

で、それ聞いた社長は、むしろうれしそうに

「え?ほんと?どこ?どこ?ちょっと、前にきて話してよ」

 

こんな感じ。

 

この会社は1000名規模だったので、小さな組織ではないです。

でも、こんな感じ。

 

でも、まぁ、やっぱり昭和的、あるいはジェンダーギャップ的(女性管理職が少ないとか)は残存していたので

 

「近い」ではありましたけど。

 

一般的には、

会議の資料を社長が席においていたら、

「あ。ちょっとそれやりますよ。申し訳ないです。」とか。

 

キックオフのときに「ちょっと・・・」なんていったら、

あとで人事部長に呼ばれて「あのな、、、」とかいわれる。

 

これ結局。

江戸時代の風景に置き換えるとわかりやすいですけど。

 

将軍様に、お茶をいただくなんて、なんてありがたい!」とか

将軍様のお言葉に異議を唱えるなんて、なんて”部外な者”だ」とか

 

その構図と

「一緒」ですね。

 

つまり

肩書き=立場。

 

本来は、

肩書きは肩書き。

立場は「対等」

 

だから「別」

 

でも、こういうささいな例みたいなことは、

もう保育園、幼稚園、小中高、、大学、、、ずーっっとですね。

残存してます。

 

校長とか。

学部長教授とか。

 

なので、それを「残存したまま」

 

膝をおって「対等」っていうのは

「対等」じゃなくて、

 

「謙虚」だというだけ、です。

しかもそこには「エラい人が優れている」という構図が横たわっている。

 

パラダイムが全然違うんです。

 

日本の企業。

結構、多くがティール組織を標榜するけど

「うまくいかない」

 

ティールの組織論は

アンバー型とかグリーン型、進化形としてのティール型の分類ありますが。

 

ざっくりいうと

グリーン型までは「パラダイムが同じ」なんです。

 

パラダイムが同じ中で、なんとか「風通しよくしよう」というだけ。

 

ティールは、もうパラダイムが違う。

「根本的に”対等”」がベース。

 

で、この

「圧倒的にパラダイムが違う」ことをしっかり認識しないで、

ティール組織を目指すので、

「うまくいかない」

 

ヨーロッパでティールが比較的浸透しているのは、

もともと

個人主義的」だからですね。

 

「あなた」「私」が「対等」が、文化としてある程度醸成されている。

 

ところが日本は

「集団」「みんな」の世界ですね。

 

幼い頃から、徹底的に「えらい人が定めたモデルに向かって、集団統制の中で従うことを訓練」されている。

 

だから、その日本はティール組織になるということは

「集団統制」という習慣を乗り越え、

その上でさらに「ティール的」を目指す・・・という

 

いわば

ハードルは2つあるんです。

 

だから、多くは「うまくいかない」

 

ハードルが2つもあるってことは

「そもそもティールってなに?」を全メンバーが理解するだけじゃなくて、

体現しないといけない。

 

でも、ずーっっと、訓練受けているから、

メンバーですら「理解しているようで、理解してない」

 

もちろん

個人主義的弊害」

「集団重視的弊害」

それぞれある。

 

だからすべては「バランス」ですね。

 

だけど、日本は「個人要素」を加えるということにものすごいハードルがある。

 

男性は仕事、女性は家庭。

伝統的家庭観なんて、むしろ「守ろう」とするくらい。

 

だから

アセンション

 

これも、ハードルは高いんです、日本は。

 

引き寄せもわかった、チャネリングもできた、、

でも普段の生活は、「身分社会的」・・・では、とうていアセンションとはいえないですね。

 

特に、教育。

もはや教育ではなく、単なる軍事教練だと、私は思っていますが、

これがもう根本的にいけてない。

 

硬直的。

 

びっくりするかも、ですけど。

たとえば貧困家庭や不登校児の支援をする「学校側」のロジックはこんな感じ。

 

・社会的能力がかけている人

・教育のやり方がまずい人

つまり、親や子に「問題」がある、「かわいそうな世帯」、だから「支援」という構図なんです。

 

信じられないかもしれないですが、これが「現実」

 

もう上下階層。

優劣判定、ばりばりの世界。

 

しかも、この「軍事教練」で、今もどんどん社会人を輩出しているわけです。

 

気づくこと、気づく機会すら与えられない。

 

この軍事教練的教育に加えて、学習塾という「上塗り機能」まで完備している・・・

 

日本だけかわかりませんけど。

スピリチュアル、風の時代といっても、「狭い」

パラダイムが「残存」

 

ここ、、、本当に痛切に感じてます。

 

なので、ブログとか、スタエフの番組で、

もう繰り返し、繰り返し、なんどでも発信して、

なんとか「気づいて!」・・・そんな気持ちです。

 

って、、、あれ?

なんか悲壮感っぽい終わり方だなー(笑)

 

ちがうんですけどね。

「ハードル高いけど、超えるの余裕でしょ?」って、思ってます。