ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

仕事も生活も、ぜんぶ思ったまま自由に生きる人

子離れとアセンション、幼い親たちが、子供に失笑される・・・という話です

かとうゆうです。

 

アセンションのエッセンス。

いろいろブログで書いてきました。

 

上下階層

優劣判定

特定の言動を=正常”とし、以外を排除・矯正する

 

そんな構造。

 

一見、

引き寄せとか、チャネリングとか、そういうのがアセンション?って思いがちですけど、

アセンションっていうのは「時空」

この場、世界全体が上昇することなので。

 

人間・人類が「真実」を思い出す

真実とは、私たちが「創造の主」であり、「無条件の愛の存在」

 

こうした

意識そのもののパラダイムが変わることで、

五感以外のスピリチュアルといっている自然の法則

地球や人類の本当の歴史

 

こうした

「真実の知識」も思い出していく。

 

いわば

スピチュアルというのは、その中の1つの側面として

「五感そのもの、あるいはそれ以外の自然法則」ついて、思い出すということなので

 

それを

「スピリチュアル」ということで、

社会や政治経済、教育などと「区別」した存在として認識している段階は

また「アセンション」とはいえないですね。

 

アセンションとは「統合」です。

分離し、ばらばらにして、区別し名称と意味づけをしてきた今までから

すべてが「つながっていること」を思い出す過程です。

 

ですので、生き方、考え方、あり方そのものも変わっていく。

スピリチュアル能力抜群、望み通り自由な生活・働き方ができた・・・っていうのは「ほんの一側面」

 

環境、外部・・・ではなく

「あなた」自身の意識・心が「統合され、変わる」

 

なので、いつも感じているのは

スピリチュアル、風の時代、”いわゆる”アセンションといっても、

「狭いな」と。

 

で。

社会、経済、政治、教育。

 

今日は教育

、、、って前置きなげーーー!(自爆&笑)

 

「子離れ」

 

これ「できてないかも」ってよく感じるんですよね。

 

子供がいない人も、あなたの子供時期として読んでいただければと思うんですけども。

 

まず、根底には

やっぱり

「優劣・上下」なんですよ。

 

子供は幼い、稚拙。

 

ここですね、ここ。

 

前のブログで書いたので詳述はしないんですけど。

 

子供と大人の違いは

「社会的知識」「それに見合う表現の方法」を「知らない」だけですね。

 

何度も書いてますけど。

「知っているか?」「知らないか?」だけ。

 

ところが、

いわゆる学校・・・私は、今の学校教育は「教育でもなんでもなく」

単なる暗記量と集団統制の訓練の場と思っていますけど、

 

まぁ、「教育」

基本的に植民地時代。

江戸から明治へ、なので、

 

「知識がある=優れている」構図持ってます。

 

でも、冷静に考えると

知識。

 

「あたしさー、この前、おいしいシフォンケーキの店知ってるんだー!」

「へぇぇ!」

 

本来、「これ」ですね。

つまり優劣でもなんでもない。

 

「シェアする情報」

 

でも、

知識量が多い=優秀

になっている。

 

だからもっというと

年長者と年下。

これも「優劣」

 

キャリアとか経験。

「若手は”足りない”」っていう根底ありますけど。

 

そもそも

キャリアや経験って、

単に、「3次元的、直線時間における情報の接触量」です。

 

量。

量が多いから、「私の体験」として感じる「量」が多かったというだけ。

 

そもそも

「量」

っていうなら、

 

人は輪廻転生してますから、

今、この現実の世界なんて「たまたま、今回のアバター」というだけ、ですね。

 

でも、

「年長者はキャリア・経験豊富」って構造。

 

怖いのは、

「優秀」ってレッテルを貼ること。

 

もうね。

どうしても、物事に

「優劣」をどうしてもつけないと落ち着かないというというか

もうしみこんでしまっているというか

 

「優劣」

 

で、対比として

「若手は、”足りない”」

 

若者もよくいいますね

「私はまだまだ”足りない”」

 

足りない・・・

これ、自己否定っていうか、自己制限と同じです。

 

だって。

 

そもそも。

すべての人は

「今、この瞬間に”満ちている”」んです。

 

だって、そうじゃなかったら「引き寄せ」だって「ありえない」になっちゃう。

 

そうですよね。

この世界、今は「私が創造している」んです。

たまたまそれが「現実脳でこだわっている結婚とか恋愛じゃない」っていうだけで、

「そうじゃないっていう世界を、”完璧”に引き寄せている」

 

今、すべて「引き寄せていて」

このパワーをもつほど「完璧に”満たされている”」わけですね。

 

 

だから、

足りない、だの

劣っている、だの

健常やら、障がいやら

良い生徒やら、悪い生徒やら

優秀な人やら、平凡な人やら

 

そういう

「優劣」

「上下」

「区別」

 

これ自体、

「本質的意味をもっていない」ってことですね。

 

もってないんです。

ほんとに1ミクロンも。

 

でも、もうこれね。

しみこんでしみこんで、

「あるべき姿」「信念」くらいになっている。

 

もう、これです。

薄氷を踏みて、堅氷に至る。

 

踏みまくり、踏まれまくって、かっちかっちになっちゃってる。

 

だから、

 

子供=稚拙、になっちゃうんですよね。

 

子育てって、実は

「親育て」

 

だって、子供の方が、生命本来のあり方に近い。

カッチカッチになってない。

 

だから、子供のふるまい

ちょっとした言動から

「はっ!」とさせられる。

 

北欧でも、オルタナ的教育もそうですけど、

「先生も生徒も対等」

これが大・大・大原則です。

 

だから、

つまんねー授業やら「こうしたい!」っていえる。

毎年の伝統行事みたな義務感満載の運動会は「こうしたい!」っていえるし、変えられる。

 

チームワークとか

他者の言動の尊重とか

自由な発想とか

対立したときの平和的解決とか

 

もうとてもとても大事なことが学べる。

 

ま、だから、日本の一般的学校教育。

単なる徴兵要員・後方要因育成のための「知識量・暗記量と集団統制」を訓練する、まぁ、軍事教練みたいなもの、、、としか思えないんですよね。

 

しかし、、まぁ、今日は、言いたいこと重なって本論に入りきらないですが(笑)

 

子供=稚拙

 

もう、この構図には、

学校、社会、企業・・・これと同じ旧世界のロジックが反映されている。

 

で。

「稚拙」

っていうなると、

 

親は、子供を

「所有物」にしちゃうんですね。

 

すんごい大事にしている

幼児教育やらなんやらすんごいやらせてる

とてもとても「大事」にしている

 

でも、、、その姿は、

まるで

「愛しい人形」としてしか扱ってないことに気づかない。

 

幼児教育。

ほんとに「子供が望んでいる?子供という対等な存在が望んでいる?」

 

子供は「可能性が”未発達”だから、親が選択を提示するためって、ほんとうに”未発達”なの?」

 

大事っていいながら、

実は

「自分の価値観、あるべき!を最善として、その"型”にはめている」

 

 

こんな現象になっちゃうんですよね。

 

で。

困ったことに、これがもう中高生とか大学生に子供がなっても続く。

 

一見、学校教育、保護者会で「すんごい前向き」だけど、

冷静にみると、

「本来、学校は”生徒”が主人公であるにも関わらず、己の価値感やあるべき!を押しつけて、結果的に学校や生徒、先生を”引っかき回す”」人。

 

残念ながらいます。

本人はもう

「愛情たっぷり、少しでも学校よくしたいし、自分も実際に行動を提供する」

 

でも、本来

「保護者は、一歩引いた存在」

 

なぜなら、子供は「対等な存在」

問題が起きたなら、子供たちにまず解決や話し合いをさせればいい。

親のあなたが「感じる学校への課題」というのは、本当に「生徒・子供たちも感じている課題なのか?」

 

このあたりが、もう「やる気と愛情」でぐっちゃぐっちゃになって

むしろ、子供たちの方が

「うちの親たちさ、うざ」って。

 

むしろ子供の方が冷静(笑)

 

だから、保護者会やら話し合いやらで

やたらめったら盛り上がって、

なにかっていうと、ああだこうだ騒いでいる人いますけど、

 

残念ながら、多くの場合は

「親が、子離れできてない」

 

なぜ子離れできないかっていうと

子供=稚拙

そして「所有物」になっちゃっているから。

 

つまり、ぶっちゃけると

「親が”稚拙”」ってことです(爆)

 

ただ、

その親自身も、

世代継承されてます。

 

親の親、そのまた親・・・

だから、ほんとに気づかないし、他人が指摘なんかすると

「あなたは学校をよくしたいと思わないの?!」なんて、逆ギレしちゃう。

 

まぁ、ある意味、

旧世界の犠牲者、、でもありますね。

 

ただですね。

別に、幼児教育自体否定、批判しているんじゃなくて、

「どういう心、どういう親子の関係や対話で、それを選択しているのか?」が大事だといいたいんです。

 

英語だって。

あと10年もすりゃ、同時翻訳テクノロジーが発達して「暗記する」必要ないだろうし、

実際、日本は内需の国。

「英語ができないと、ほんとに仕事ができない」人って、数パーセント。

海外で活躍!っていっても「必要になったそのときにやればいい」

 

つまり「フローの情報」ですよね。

覚えりゃいいだけ。覚えるの大変なら、テクノロジーに記憶させればすむ。

 

塾とか。

まぁ、「おけいこごと」とか。

 

それも、やたらめったらさせてたりします。

それ自体は別のどうのこうのないんですけど。

 

多くは

「所有物」

「子供=稚拙」

になっちゃってる。

 

しかも、日本人は「みんな」に弱いので、

みんな、やっていると

やらないと「遅れる」という、もうロジックもなにもない

イメージの世界で、選択したり、、、、

 

あーあー、、、ほんと、すいません。

教育。

教育、ほんとにね、もう決定的にだめだ!って思っているもんですから、つい、、、いろいろ書いちゃった。。。