かとうゆうです。
さらにそこにある深い意味についてArahabakiさんがよく書いていらっしゃいます。
私は、少し違う視点、身近な企業人の実感・・・そんな視点で書いてみます。
そもそも本来は
「労働」は外部化されていませんでした。
生活の一部であり、自己表現の一部でした。
「労働の外部化」は、資本主義が登場した17世紀ころのマニュファクチャの登場によります。
人類の長い何万年の歴史からいえば「ほんの一瞬」ですね。
資本主義が成長するためには「資源」と「労働」が必要です。
「資源の外部化」は簡単ですね。
どんどん掘り出していけばいい。
「労働の外部化」は、少し手を加える必要がありました。
固定労働時間。
同一場所。
「指示と従属」
こうしたルールを設定する必要がありました。
人々はこうしたルールに従うことを条件に「報酬」を受け取る。
それをテコにして「労働の外部化」をしてきたわけです。
ここで重要なことが2つあります。
ひとつは「指示と従属」です。
富裕層がほしかったのは、あくまで「労働」だけです。
「意思」は求めていません。
従ってくれればいいわけです。
意思は特定階層で決める。
それは知識の格差。教育機会の格差が歴然としていたからですね。
労働者・庶民階級が経営を担うのは困難です。
ですので「労働」というパワーだけを、人々の生活から、切り離し、外部化したわけです。
人々の意思、生活、幸福といった観点は、人によってはあったと思いますが、システム的には「無関係」です。
さらに「ぎりぎりまで外部化する」です。
資源はとろうと思えばたくさん。
しかしそれを生産・加工するのは、「労働」をできるだけたくさん取り出す必要があります。
そこで「休みもない」「一日12時間労働」など過酷な事例がたくさん発生しました。
しかし、ここで忘れてはいけないのは「労働をできるだけたくさん取り出す」というエネルギーは今も同じ、ということです。
資本主義という大きなシステムが変わったわけではありませんので。
「一日8時間・週休2日」
さすがに人権や労働者権利とのバランスから、一部のブラック企業を除き、多くの企業がこれを基準にしています。
しかし、資本主義からするとこれは「しぶしぶ妥協した」ラインです。
このように資本主義は、常に「労働を外部化・できるだけたくさん」を志向します。
そして重要なこと。
資本主義は「報酬をできるだけ抑制する」エネルギーが働きます。
簡単にいうと、
「労働をできるだけたくさん取り出し、与える報酬はできるだけ少ない」というエネルギーです。
こうしてみると
「一日8時間・週休2日」というのは、実は自然な人間のあり方すると「異常な形態」だということです。
さらにたとえば月給20万という、その額面自体が「実は虚構」だということです。
時給1000円という、額面も同様です。
認識しやすいように少々極端にいうと、
「労働の外部化」自体、私たちが異常なことだとして拒否した場合。
たとえば週2,3日程度。
さらに自由に時間を選択できる。
このようにして、さらに「報酬額」も、
「そもそも20万とかそういうのはおかしい。200万くらいが20代の平均給与だ」と決定する。
実は・・・これ極論ではなくて可能なんです。
今や数パーセントの富裕層と、90%以上の層ではどんどん格差が拡大しています。
何百億も持てる人と、数百万、100万、200万の年収の人の格差はどんどん拡大しています。
さらに「週休3日」制度をすでに導入し、実績をあげている企業もでてきました。
知識の格差もありませんから、そもそも「指示と従属」も不要です。
全員が「対等」、管理職なしというティール組織も実際に登場しています。
そうなんです。
私たち本来のあり方は
「そもそも労働自体が外部化されている必要がない」のです。
働くというのは「自己表現や自己実現のために行うプロセス」です。
なので、外部化され、ルール化され、指示に従う・・・という自体がそもそも必要がない。
その意味では今日的意味での「労働」は未来はなくなる・・・と思っています。
さらに「お金」
だいたい新入社員だと20万前後かな?・・・という額面自体、実は「虚構」です。
人類が「こういうルールにしよう」と合意した、人為的なものです。
人が生きていく。自己表現する。自己実現する。
そうした観点からすると「そもそも異常」なんです。
こうした観点に立ち、さらにティール組織や週休3日制度などの実例の登場をみると、
「そもそも、私たちにとっての経済システムとは?」
実はこれをいよいよ考えるべき時代が来たということです。
そしてそれは本来的に私たちが幸福であることを、実現してよい時代になったということです。
それでは今日はこのへんでー!