ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

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悩みは心。心は観念を外すとラクになるといわれるけど、なかなか…という場合、実は簡単に腑に落ちることができるかも、という話です

かとうゆうです。

 

いつもブログ開けたときに、パッと思い浮かぶことを書いてます。

今日は「観念を外す」です。

 

以前、「悩みのほとんどは心」だと書きました。

”ほとんど”と書いたのは、深い意味でいうと”心”ではありますが、どうにもならないことから起こることもあるから、です。

 

親とその育った環境

生まれた場所、日時

生物学的な性別

 

特に幼い頃は社会的知識や表現力を学ぶときなので、やはり親や環境の影響が大きいです。貧しさ、家庭内不和とか、幼い子供の意思ではどうにもならない。

 

もちろんそれ自体も「選択してきたテーマ」というとらえ方をすれば、別の角度からみえてきますが、それでも何らかのチャレンジは必要な場合が多いと思います。

 

なので”ほとんど”と書きましたが、やはりほとんどは「心」ですね。

 

大体は、

「執着(こだわり)」

「焦り」

「驕り」

 

といったところから生まれるといわれています。

 

特に「執着」ですね。

これがある意味厄介です。

焦りとか驕りは、割と気づきやすい。

誰でも傲慢でありたいとか、慌てたいと思っているわけではないので、誰かからとか何かに触れることで気づきやすい。

 

しかし「執着」は、本当に深く見ていかないと気付かないことがあります。

というのは、

 

社会通念=人並み

そういうものだ、、、と当然のように思っていること

 

 

こうしたことから起きますね。

社会通念上は、日本だと女性が持たざるを得ないことが多いです。

結婚、子ども、です。

 

それがないと「人並」でない。

だから、周りからもいろいろプレッシャー受けたりする。

 

でも、結婚しないことは「何も損なわれている」ことを意味しませんね。

すべては選択です。

いろいろやっているけど結婚できない場合もありますが、そのときは、さきほどの「焦り」「驕り」といったあたりをみていくと何かに気付くことがあります。

 

私という一人は、それ単体で「何も欠けていない」し、「足りないわけでもない」

なので、「ソウルメイトがいないと・・・」というのも、やはり少し偏った考えかもしれません。

 

なので究極的には結婚しようがしまいがどちらも選択であり、自分の捉え方ですね。

結婚・・・いろいろ考えたけど、自分らしさの在り方と違うと気付いたり。

したいとは思うけど、自分にとって「それがないと絶対だめっていうわけでもない」と気づいたり。

もちろん結婚しても、「何が足された=人より足された」ということはまったくないですね。

 

すべては捉え方。

本当の自分らしさであり続けるための、ある種「イベント」です。

 

イベント自体に本質はなく、それは中立

そのイベントがどうであろうと、なかろうと、それをどうとらえていくか?

そして捉え方によって「必ず自分らしさ」はみつかる、ということですね。

 

男性は逆に「仕事」「残業」ですね。

仕事をする、残業をする・・・このくらいが「やっている男性らしさ」と定義される。

 

こうした社会通念=人並み・・・から比較して、「焦り」「こだわり」などが生まれやすいです。

 

そして社会通念というのは、物理法則ではないですね。

統計的に多数の傾向があるとしても、それが自分に適用されるかどうか?は全く別の話です。そしてそうした社会的通年自体も「執着(こだわり)」から生まれていることが多いですね。

 

 

 

なので「比較しない

誰かや何かと比較することに意味はないです。

 

そして、「比較しない」ことをしてみても、まだ自分の心の奥に「観念」が残っていて、悩みや葛藤を引き起こすことも多いです。

 

それは本当に奥にあったりします。

奥にはありますが、しかし「みつけるのが難しい」わけではありません。

 

奥にある・・・と表現したのは、「観念に観念がからまっている」からです。

逆にそれに気付くと、あっという間に外れます。

 

例えば「やりたいことがない

でも、まず思いつく観念は「お金=稼ぐ」ですね。

 

でも、お金=稼ぐ、は社会的通念です。

他人がプロだとか認めるかどうか?に依存しているだけで、自分にとってどうか?とは明確に違います。

 

お金=稼ぐ…を外すと、たくさんの「やりたい」ことがあることに気付きます。

 

だけどそれでも「みつからない」場合、そこにさらに「観念」がからみついているかもしれません。

 

何かちゃんとした形とか水準であること」の観念です。

 

音楽したいけど、音楽は楽譜読めないと、、、とか。

でも鼻歌から作曲できるソフトもあります。

 

同じように料理でも、アクセ作りでも「こういう形」に観念があって「自分には向いてない」とか思ってしまう。。

 

さらにそこに「人と比較」したりすると、観念に観念がからみついて、「やりたいこと」がわからなくなる・・・

 

大事なポイントは「それをしていて楽しいと思えるかどうか?」です。

逆に言うと、それ以外は一切必要ないといってもいいくらい。

 

そして観念は、からみついていますが「みつけるのは簡単」です。

 

問い続けること

必ず答えはわかると思うこと

 

「やりたいことがなくはないけど、行動までできないのはなぜか?」

「なにか他者や他物と比較して、あきらめていないか?」

「そもそも、やりたいことはある程度稼ぐことが必要と思っていないか?」

 

 

思いつく限り問い続けることで、観念は簡単に外れます。

 

「観念に気付いたけど、頭で理解しても、行動できない」・・・そんな場合は実は「そういう観念」があるということです。

 

「観念は外すことは難しい」

「観念を外しても、結果は伴わない」・・・という観念です。

 

 

そして「答えは必ずみつかる」ということです。

 

というのも、すべての答えはそもそも自分にある、ということです。

本とか動画とかみて「気づく」ことありますが、それって、もともと「自分にある」からですね。

 

全く何もなかったら、いかなる刺激を受けても「気づく」という感情にはならないですね。

 

すでにあるから「気づく」「刺激を受ける」です。

 

難しい哲学書とか、思想書読んでいて「気づく」ということは、その難しい内容も含めて「自分にある」、だから気づく、ですね。

 

なので「必ず答えはある」です。

 

 

ちなみに今日も私は一個自分の観念に気付きましたー!

内容?・・・え、、と、恥ずかしいから「内緒」ですー(笑)

 

それでは今日はこのへんでー!