ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

仕事も生活も、ぜんぶ思ったまま自由に生きる人

自然のゆっくりしたリズム、、、、そして思えば思うほど、今の「外部化と分断」が滑稽に思えるという話

かとうゆうです。

 

妻の実家、富山県に帰省中。

 

いつも思うんですけど

時間の流れがゆっくりしていて、本当に心地よい」と。

 

都会の喧騒なんていわれます。

もちろん私は都会に住んでいませんが、郊外なのでそこそこ。

 

みんな都心に向かって通勤。

 

満員電車も、本当に「不自然」ですし。

今はいくらでもリモートワークできますし。

 

仕事と家庭が分断されている。

資本主義の「労働の外部化」という世界も、本当に「不自然」

 

本来、人間は「生きる」が全人格的に存在し、表現されていて。

 

その中で

他者との交換性を伴うものを「仕事」と表現し、

近親者の交流に近いほと「家庭」と表現するだけの話なのですが。

 

要するに「生きる」

「自分らしさ」の行動について、光の当て方が違うと「仕事」「家庭」といわれる・・・

 

でも、本質的に、仕事も家庭も「区別や分断は存在しない」

これが本来の自然な姿です。

 

仕事とプライベートを混在したくないというのは、仕事が「労働の外部化」によって「仕方ないもの。笑顔という鎧を装備してやるしかない。」状況だからだと思っています。こう定義された「仕事」は、確かにプライベートにはもちこみたくないですよね。

 

本来「生きる」に包含されるもの。

 

ところが、わずか数百年足らずで「労働の外部化」が「仕方ないけど、そういうもの」という社会に。

 

いきなりぶっとびますけど。

戦国時代。

群雄割拠。

「戦争当たり前」

 

これが「仕方ないけど、そういうもの」でした。

 

人間ってほんのちょっと数十年とか数百年とか続いただけで

「普遍性」があるように錯覚しがちなのかも、です。

 

「労働の外部化」

これ100年後、いや30年後の人からみたら、今は

「あーー、強制資本主義の時代ね。よくあんな中で人々は働いてたなー。」とか。

 

歴史の教科書に載るかも、、、といういうくらい

「客観視」

しないといけないです。

 

本当に。

 

「労働の外部化」

 

日本だと、外部化された労働は「男性」

以外の家庭関連は「女性」

 

とかって、属性判断が残存する、、、いわば奇妙というか、滑稽な状態。

 

おかげで、夫婦で生活しているのに、

仕事も、育児家事も、なぜか、それぞれがワンオペ状態

 

分断されっちゃってる上に、属性で定義されている・・・

 

本当に「滑稽」というくらい、おかしなものだと感じています。

 

と、、、、話があちこちいきましたけど。

 

ゆっくりした自然のリズム

 

これが本来、私たち人間のいる場所。

別に清貧であれ、とかテクノロジーを排除とかではなくて

「豊かさも、テクノロジーも、ゆっくりしたリズムも、本来同居できるものだ」と思っています。

 

それでは今日はこのへんでー!