ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

仕事も生活も、ぜんぶ思ったまま自由に生きる人

時代はどんどん変わる。情報は一方的ではなく、選択に・・・

かとうゆうです。

 

さて。。。なにを書こうかな、と(笑)

 

実はブログ「書いて直感で」も結構多いです。

キーボード打つ瞬間まで、「なにもない」(笑)

 

あ!

そうそう。

 

この前「テレビは一切みない」って話したんですけど。

「言葉足さなくちゃ」と。

 

「能動的にしか、みない」です、正確には。

 

それに、ですね。

個人の嗜好ですんで、テレビみる=だめ、とかってわけじゃ、1ミクロンもないです。

 

なので「私が一切テレビみない」っていうのも

「テレビ、みない」という行動ではなくて、

 

「なぜそれを選択したか?」を、参考程度にみていただければ。

 

で。

話変わります。

 

持病・・といっても、中性脂肪なんで「あるある」ですけど(笑)

たいしたことないんですが、3ヶ月に一度薬をもらいにいきます。

 

病院の待合室。

「待つ」わけですが。

 

テレビがありまして。

ニュースとか。

 

流れてます。

 

それみた私の感想ですけども。

特にニュースですね。番組でも、すごいなーこのドキュメンタリーとかありますよね。

 

感想。

 

「これ、一方的に”不安”の引き寄せをさせられてる気がする」なんて、思っちゃいました。

 

たまたまなんですけどね。

どこそこで事件が、とか。

だまされるな、とか。

金利があがって大変、とか。

 

番組作っている側の気持ち考えると

「すごくよくわかります」

 

私だって、たとえば編集者で。

視聴率は一定稼がないといけない。

毎日流さないといけない。

事前に組んで、スタッフを配置して、取材しないといけない。

 

「大変」です。

 

グルメ系も稼げそうですけど、

さすがに「毎日、おいしいもの」って紹介しづらい。

ネタがない。

 

てっとり早いのは

「事件」

「風潮」

「噂」

ですよね。

 

どこそこでこんな悲惨なことが!とか。

こんなことがはやっていて、やばい!とか。

もうすぐ大金利時代がやってくる!とか。

 

で、、、コメンテーターのコメントも「いい加減だな」と。

 

気持ちはわかります。

「オールラウンダーじゃないのに、いろんなことに、それなりのコメントいわないと、降板」ですからね。

 

でも

「こういう事件は本当に原因を解明しないといけないですね。心理的にはおそらく○○で・・・」

 

って、冷静に聞くと、「そんなコメント誰でもいえるわ」みたいな(笑)

 

「もっともらしくいう」っていうスキルはすごいなーと思いますけど。

 

結局。

視聴率。

 

「共感」なんです。

聞いた人が「そうだよなー」と思わせることが重要。

 

なので「そこに真理があるか?」は全く別。

 

「悲惨ですよね。私の立場なら、怒り狂ってしまいますよ。極端ですけど、復讐したいって思っちゃいます」なんてコメント。

 

きいた人は「そうだよなー。そうだよなー。」

 

これが「共感」

 

グルメとか事件、多くは「不安の話」

これに「共感」させる。

 

そうすると関与度あがり「視聴率が稼げる」

 

そんな構造かも?なんて思っちゃいました。

 

もちろん「そんなことないコメンテーターもいる」ですけどね。

 

3ヶ月に1回。

病院と薬局の待合室のテレビをふとみると、どうしても思っちゃうんです。

 

そもそも

今、時代は「情報は選択」です。

 

一方的に流れることがよかったのは、ネットがなかった時代。明治時代とか江戸時代とか。

 

そして「選択」するためには

「自分」がちゃんとないと、ですね。

 

選択・・・という”選択”をするために必要な

価値観。

 

シンプルにいうと

「必要かどうか?自分次第」なんです。

 

そして、「必要な情報は、シンクロで必ずはいってくる」わけです。

 

メディアにまったく接触しなくても、

その人のライフテーマに必要なら、

「必ず」

 

ふとみたとき、

ふとした知人の言葉、風景

 

シンクロは起きます。

 

もちろんだからといって「情報をシャットダウンしてもOK」とかって、極端な話ではないですけども。

 

、、、と、相変わらずあちこちいきましたけど。

いいなーという番組、コメンテーター、、、いると思います。

 

でも、「気をつけない」と

「不安の情報シャワーを浴びて、不安を引き寄せる」ことになるかも、です。

 

テレビだけじゃないですね。

新聞だって同じです。

 

「世の中をある程度を知るなら、”新聞(電子も含めて)”」っていう時代は、終わったんじゃないかなって。

 

新聞だって「誰かの編集者。発行部数。」ですから。

 

この地球。

世界中の無数の情報から

「その虫眼鏡で、ちょっとみてみたもの」がのっているだけ、ですね。

 

しかも異動にでもならない限り、編集者は同じ。

 

「ある特定の個人、少数者の虫眼鏡の情報を、毎日毎日みていて」も、それでいいのかなー、なんて。

 

新聞を複数みたり、

新聞以外の情報もみたり、

そういう「客観視できる」場面をちゃんとつくるといいのかと思いますけども。

 

いずれにしても

「能動的」というのは、

「私に必要な情報は、私が選択してみる」という風に思っているので、こんな表現をしています。

 

ただ、ですね。

テレビがいいとかわるいとか、新聞が・・・ではなくて

「それは”中立”」だということですね。

 

中立っていうのは「情報内容」じゃなくて、

 

「意味づけするのは自分なんだ」ということ。

 

だから、やっぱり「自分の選択」であるほうがいいかも、、なんて思いました。