ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

仕事も生活も、ぜんぶ思ったまま自由に生きる人

さーて!いよいよ書いてみようかな!の話です。さて、なんの話やら・・・

かとうゆうです。

 

今回は「宗教と神」

 

これ、ディープですねぇ。

書くの、ずっとためらってきました。

 

別に批判しているわけじゃないんで。

でも、「異なる視点」を提示すると、批判に思われるから、ヤダな、なんて。

 

でも、ほんとに批判しているとかじゃないんで、思い切って書きます。

 

 

いきなりですが

「”宗教”という形態は、ここ数千年特有のもの」という話です。

 

そもそも。

 

「神」

 

実際は「私たち自身」「私たちと同じ存在」です。

 

神・・・を、他律的な、

つまり「自分とは異なる、崇高で、従うべき存在」

と定義するなら、それは違うな、と。

 

私たち自身が「神」です。

 

、、、って、ちょっと追記しないと、ですね。

 

そもそも「神の正体」ですが、

スピリットにはいろいろなレベルがあるので、いろいろですが。

 

例えば○○大神、とか、○○の神。

 

結論からいえば「宇宙人」です。

 

へ?ですよね。

 

こういうことです。

 

宇宙には高次元の存在がたくさん。

そして地球には、実際にはたくさんのそうした存在が来訪しました。

今も、ですけどね。

 

例えば縄文時代

たまたま「宇宙船に乗ってきた人」

 

縄文人はどうみるか?

「これは、天からきた”神”だ」と。

 

もう理解を超えているので「崇める存在としての神」になります。

 

さらに。

その「神」、、実際には、私たちと同じ「宇宙人」ですが、

その「神」となにがしかコンタクトできる人がいる。

 

そうすると「コンタクトできる人」を中心に組織化されます。

 

今も多くがそうですね。

 

仏教だと「禅」は比較的そういう特定人物を頂点とするピラミッドにはなっていない。

「人これ我、我これ真なり」ですので。

 

もちろん有名な禅僧はいますが、他団体と比較すると「特定人物を頂点とする組織化」はあまりされてません。

 

ここで大事なことは、

組織とか、特定人物を頂点とか、、、そのあり方がいいとかわるいとかの話ではないです。

 

宗教は、いろいろありますが、少なくとも、人類の精神性を担ってきたわけですから。

 

ただ、今いよいよ

「ひとりひとりが価値ある存在」の時代です。

 

なので、もし

「その特定の人物は、自分より”はるかに髙みにいて”、尊敬し目指すものの、”到底おいつけるような存在ではない」と思っているとしたら、ちょっと違うかも、です。

 

なぜなら、その特定の人物だって、「別に、自分と対等」ですから。

 

神・・・も同じです。

「はるかに髙みにいて、到底追いつけない存在」として

 

自分とは”異なる”、遠い存在だとすると、実はロジックとして

「すべての人は対等」が成立しなくなります。

 

神も特定人物も「対等」

なぜなら、「宇宙のスピリット」なので。

 

現在、人類は「まだ進化の途中」とはいえ、

基本的には「対等」です。

 

なので、別に、

神は存在しない、とか。

特定の人物は尊敬するに値しない、とか。

そういうわけではないんです。

 

基本的に「みな、同じスピリットの存在」

だから「自分とは”異なる””追いつけない”存在」じゃない、っていうことです。

 

組織化してもいいでしょうし、特定のすばらしい人を目指すのもよいでしょう。

しかし、そこに「自分とは異なる”他者としての投影”をしている」とすれば、少し違うかも、という話です。

 

先導者がいる・・・これはある意味心強いですね。

身近な存在としているわけですから。

 

でも、「基本は対等」です。

その人だけ「特別な、自分とは違う、そして特別な待遇である必要」はまったくないということです。

 

神も同じです。

何か「全く異なる存在の、自分では追いつけない存在」ではなく

 

「対等」

 

だって。

「私たちは、すべて、今、この瞬間に、すべて”足りている”」んです。

そして、答えも”知っている”

 

なぜなら私たちも「スピリットの存在」だから、かけているものはなにもありません。

 

もう少し言葉を添えると

私たち人類が、まだまだ「サバイバル全開の、アセンションの”ア”の字も遠いとき」

 

そのときは、先導し、ガイドする役割は大事です。

そのガイドの過程で「特定の存在を頂点とする組織」は、むしろ大事です。

 

誰かが旗をあげてくれなければ、もうずーっと「ネガティブ時代」になってしまうので。

 

でも、むしろその「ガイド」のおかげで、いよいよ私たちは

「すべての存在は価値あり、対等」の時代に入っています。

 

以前からいっていますが

「指示と従属」

「上下階層関係」

 

こうした「えらい人とそうでない人」というのは、

まさに法華経の方便でもあるように、「火宅から逃れるためには、必要な方便」でした。

 

でも、時代はもう変わっています。

 

全員が、「そもそも宇宙スピリットである」ことに気づきはじめている。

 

そして「神」として、歴史的あるいは伝統的に「あがめていた存在」も、実は自分たちと同じ「宇宙スピリットであり、地球にたびたび来訪していた存在」だったいうことです。

 

潜水艦からくれば「海の神」でしょうし

空からくれば「太陽」かも。

夜、光って来訪したら「月や金星の神」かもしれません。

 

なので、神とか特定の人物を頂点とする組織がいいとかわるいとかの話ではない。

 

すべては「仏教的にいうと”方便”」です。

意味のある体験。

 

そして、その人が「自分も宇宙スピリット」だと気づくきっかけ、

その選択肢は、多く、多様である方がいいですね。

 

でも。

「自分と同じ存在」

 

これは、しっかりおさえておく必要があるな、と感じています。