ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

仕事も生活も、ぜんぶ思ったまま自由に生きる人

今は「渦中」だから「最高・・・サイコー???かもねー」くらいの話

かとうゆうです。

 

気がつけば、更新間隔空いてましたね。

 

この間、「ゴタゴタ」がありました。

 

、、、といっても、「出来事」ではなくて、「内面」

 

お試し、、、とかっていわれますけど、

結構、ハイヤーセルフとかって、お茶目なところがあるようで、

「ほんとにわかってる??ほんとかなぁー」

 

ということで、「お試し」みたいなことが起きます。

 

で、見事に

「ゴタゴタ、グダグダ」になっていた次第です(笑)

 

こっちからすると、「お試し」とか、やめてくれよ-、ですけどね。

 

気持ちが落ちたり、

いらいらしたり、

どうでもよくなったり、

 

「グダグダ」(笑)

 

振り回されまくりで、今も完全本調子ではないんですけど。

昨日くらいから、やっとこさ、、です。

 

やっぱり「理解している」だけではなくて、

体得というか、実感がもてるようにならないと、ちょっとしたことで「ゴタゴタ」しますね(笑)

 

とはいえ。

「グダグダ」も、「最高の体験」ってやつですね。

 

今は「渦中」だから「最高・・・サイコー???かもねー」くらいですけども(笑)

 

とはいえ「グダグダになる原因」というのは、わりとみつけやすくて。

・焦り

・奢り

・偏り

だいたいこの3つ。

奢り、、、といっても傲慢っていうだけじゃなくて、

「自分はまだまだわかっていない」・・・というのも、ある種の「奢り」です。

 

なぜなら

「自分は完璧に、本当はわかっている」はずなのに、

そこに、フタをしている、、、

 

ということは、「自分」という存在より、何か別の「上のあたり」にいて、

「自分はまだまだ・・・」ということなので、ある種の「おごり」ですね。

 

「おーい。自分はそんな高いところにいないよ。そのまま、ありのままでいいんだよ。やりくだっているつもりだけど、自分は違う存在っていうことをアピールしているようなもんだよ。」という感じ。

 

偏りは「定義」ですね。

男は、、、女は、、、

社会人は、、、

夫は、妻は、、、

 

「その人」以外の属性

 

年齢、性別いろいろ

 

要するに「男性ってだけで、定義していること」

「女性っていうだけで、定義していること」です。

 

その前に「自分」「あなた」ですので。

 

でも、社会は「こういう定義満載」です。

 

仕事もそうですね。

もうグローバルレベルでは、

・1日8時間

・平日5日

とかって、もう「古い」「硬直的」

 

国際人とかっていわれますけども、「英語」には本質はなくて、

こういうパラダイムをしっかり体現できているかどうか?ですね。

 

日本は7割内需

ほとんど「国内」です。

みなさんの周囲でも「絶対、英語ができないと仕事にならない知人」って、ほとんどいませんよね?

 

さらに「英語」

言葉は、コトダマなので、その意味では「ストック」ですが、

会話レベルは、「フロー」です。

つまり「知っているかどうか?」だけ。

 

さらに、翻訳ソフトがかなり秀逸ですから、別に話せなくても、ある程度の会話は可能。

 

フローのスキルっていうのは、代替可能なんです。

 

学校の勉強もそうですね。

正確には「学び」じゃなくて、必死に「フローの知識」を覚えている状態だと思っています。

 

ほんとは「ストック」

人との関係

自分らしさと価値

コミュニケーション

 

こうしたものですが、とにかく「フローの知識」

 

数式を覚えるよりも、数式が成立している意味や価値を知る方がはるかに大事です。

 

植民地時代。

これは「フローの知識」が必要でした。

 

世界の中で、日本は「フローの知識」が圧倒的に不足していた。

だから、必死に「覚えた」

 

それが教育の原型ですが、

 

今は、ネットがこれだけ進化してますから、

「フローの知識」は、世界中から得られる。

 

みなさんも、検索ばんばん、ハッシュでばんばん調べていると思います。

 

なので、大事なのは「ストック」

得た情報の価値を見極める力

それを生かす力

 

これですね。

 

なので、日本の教育は、

植民地時代の「古い」、そして「規範や集団性が異常に重視される」、兵隊育成のモデルです。

 

なので、学会でも、大学でも

日本の水準は、どんどん低下。

 

北欧では、偏差値もないし、テストもない。

対話と自己探求

 

フローの知識を覚えるんじゃなくて、

その知識の意味と価値、それに対して自分がどう価値を覚えるのか?

を学ぶ。

 

ディスカッションや自主性が当然です。

運動会などのイベント、校則その他、ぜんぶ「生徒で話し合って」決めれますので。

 

過去からやっていた・・・というだけで、

「高校2年だから、この競技、、、この役割」・・・っていう、定義をして、集団統制するのって、どう考えても「軍隊」ですね。

 

部活動は「必須」、さらに内申点なる、完全に意味不明なもの。

 

部活やって、委員会やって、内申点が何点で、高いとどこかにいける・・・この世界観のどこに「生徒の自主性」があるでしょうか?

 

その点数を稼ぐ日々の中で、どれだけ「ストックの力」を学ぶことができるのか??

 

社会が、勝手に定義したモデルに対して、無理矢理適合させようとしていることになぜ気づかないのか?

 

結構、不思議なんですけどね。

 

戦争って、人間性はなくて、人間も「兵隊」という機械になるしかない。

人間は、「ひとそれぞれ」ですが、

機械は「定量化」が可能です。

 

モデルを設定して、それに対して競わせて、点数で評価する・・・これは、もう軍事組織そのものだなって。

 

モデル、、、いらないんです。

 

会社でも、よくやってますけど。

笑えるのは、人事の理想像に完璧に適合する人が「社内にほとんどいない」ということですね。

 

だって「人の理想は、人の数だけ」ですから。

 

そして、人それぞれの「あり方」を許容すればするほど、その人はパワフルになって、会社にもよい影響を与えられる・・・

 

このシンプルなことになんで気がつかないで、必死に「モデル」を設定し、点数で評価し、他者と競わせているんだろう、、、といつも思います。

 

そして年1回の人事異動とか。

 

年1回!

 

社会のスピードはそんなもんじゃないですね。

2週間のときもあれば、1ヶ月もある。

 

もっともっと「柔軟」、かつ「本人のあり方」に注目しないと、

 

ずーっと戦時中のロジックのまま、です。

 

実際、ティールとかノーレイティングとか世界では制度化されますけども、日本は「さっぱり」ですね。

 

目標管理制度、、年1,四半期、半期の評価・・・このやり方って「もう全然時代に合ってない」んです。

 

スイスでは、労働時間はライフスタイルに応じて可変です。

「育児あるから、来月から6時間勤務なんだよー!」「えー、そうなんだー」で終わりです。

 

でも、日本は「フルタイム=正常」なので、

ご丁寧に「時短制度」というものをおいて、わざわざ「この人は”ちゃんと働けない人”」と定義していますね(笑)

 

あ、、、、やばい。とまらなくなってきたので、このへんで!