ラクになった瞬間~現実はいくらでも変えられる~

仕事も生活も、ぜんぶ思ったまま自由に生きる人

"標準”大好き日本人?・・・でも、それ自体が問われているから生活がなかなか・・・

かとうゆうです。

 

日本人。

「標準」

大好きですよね(笑)

 

私も日本人ですけど、もう全然客観視してまして。

 

でも時代は

「ひとりひとり価値ある存在」の時代。

 

つまり。

「標準」じゃなくて「人それぞれ」

 

でも、未だに

社会、企業、学校、はたまた結婚・出産などライフイベント。

「ぜんぶ”標準”」を適用して、そこに合わせようとする。

 

標準・・・って、要するに

「たくさんの言動パターンから、”これ”というもの”だけ”を”是”」としただけ、です。

 

良い生徒。

以外はわるい生徒。

 

優れた人。

以外は劣っている人。

 

髪型とか服装も「こうある」

以外は「変わっている人」

 

男性は「こう」、女性は「こう」

それ以外は「マイノリティ」

 

今。

クリスマスシーズン。

年越し、元旦・・・

 

いつも思うんですよね。

クリスマス。

「チキン」

 

ほんとに食べたいっていうのなら全然OK。

でも、「みんなチキンだから」の論理強くないですか?

 

クリスチャンならともかく。

っていうか、クリスチャンは「家族と静かに過ごす」ものですから。

 

クリスマスは

「寿司」でもいいし、

特に「何もしなくても」いい。

 

でも「みんな」

 

でも冷静になってほしいんですよね。

「みんなやっている」

というのは、「状態を表す」だけ、で

「あなたにとって、何の意味もない」です。

 

意味は「あなた」が与える。

 

で。

もっというと。

「みんなやっている」=なんとなく安心。

 

このロジックって、

「戦争」なんです。

 

え?ですか?

太平洋戦争。

 

みてください。

「みんなやっている」

 

冷静にみたら、とてもじゃないがアメリカに勝てるわけがない。

でも。

軍人から市民も「みんな」のロジックで、戦争に。

 

太平洋戦争って

「一部の軍国主義」だけじゃないですね。

 

開戦ニュース。

「やったぜ!」って市民がたくさん。

 

っていうか、ほんとに「やばい!」と思っていたら、一部が騒ごうが「回避」できます。

 

でも、「みんな」

心ある軍人も「みんなが決定したんだから・・・」といって、退役して田舎にいったり。

市民も「みんなで決定したから大丈夫」とか。

 

国際情勢と

「みんな」って

 

全然関係ない。

 

だから「みんなそうだ」

このロジック・・・実は「戦争の選択」にもつながるんです。

 

「標準」

 

もういい加減やめませんか?

 

服装。

ちょっと変わった髪色。ファッション。

 

だから?なんだというのでしょう?

 

クリスマスに「寿司」

だから?なんだというのでしょう?

 

出世興味ない。主夫がいい。

だから?なんだというのでしょう?

 

ばりばり働く。結婚無関心。

だから?なんだというのでしょう?

 

男性だから「しっかり働く」

女性だから「家庭も」

 

これ「属性」が主語になっているんです。

 

男性っていうだけ。

その瞬間に適用される定義。

 

まったく無関係ですよね?

 

だって。

「あなたはあなた」ですから。

 

だけど。

日本人って。

「属性を主語」にしちゃう。

 

だから、企業でも相変わらず「特定のパターン・モデル」を目指そうとし、学校でも特定のモデルを目指そうとする。

それ以外は「矯正か排除」

 

でも考えてみてください。

人間の幸福。

 

人ぞれぞれ。

企業でパワー全快。貢献度大!にしたいなら、

人それぞれをできる限り許容するのが当然ですよね??

 

1日8時間だの週5日だの。

それって「人それぞれ」

 

でも、それ以外排除しますね?

時短適用者って、つまり「ちゃんと働けない人」ってことです。

 

スイスじゃ、働き方は選択。

育児期は6割、今は10割。

 

選択ですから。

「時短」って概念がない。

 

そもそも。

集中力が「8時間ずーっと」続く人。

ときどき「違うことをするといい感じの人」

みんな違う。

 

なのに「箱」

「標準」

 

しかも女性だ、男性だというだけで「定義」

 

で。

こんなこと書くと

「日本人の良さがなくなる」とか。

 

これ「論点が違います」

 

良さって・・・「気遣い」です。

つまり、「心の持ち方」

 

だから東日本大震災でも「列を守って、外でみんな待っている」

世界からみると驚かれたみたいです。

 

で。

標準を適用し排除の論理っていうのは「社会の定義」

 

「心」

「社会」

 

論点違う。

 

だから「標準にこだわることをやめる」ということと

「日本人らしさ」って「両立」する。

 

それを一緒にして、もうひとくくりにして

「伝統的」なんてやっちゃうと、

もうこれ

「単なる守旧」ですね。

 

標準、そして排除。

これ若い人にも感じること多々。

 

つまり学校からずーっと訓練されているから「気づかない」

 

若い人は「柔軟」といわれるけど

「あれ?もうその年齢で、染まっている」・・・って。

 

考えてみてください。

明治維新

若い人が「気づいた!」「決起した!」「国が変わった!」

 

別に戦う必要はないですけど。

「気づいた!」ら、変わっている。

 

でも、若い人だって、「もう固定観念ができあがっている」

 

だから、本当に

教育から、なんです。

 

幼稚園・保育園から。

 

しっかり変えないと。

 

でも教育。

未だに明治時代。

 

個性を活かす!なんていいながら、結局偏差値と内申点

「やっていることは”明治時代”」

 

課目も明治時代。

 

テクノロジーはない。

っていうか、「触るな!」ですよね(笑)

 

ゲームだめ!

SNS危険!

 

でも、大人はバンバン使っている。

 

子供たちは「明治の論理」

だめ!

禁止!

時間制限!

 

だから「教育」

ここから変えないと

日本は、どんどんGDP低下。

閉塞感。

賃金低下。

残業多い。

差別や区別ばんばん。

 

しかし、あれですねぇ。

生まれた場所って、自分で選択してきたわけですけども。

 

きっと私は「日本」ってところに生まれて、これを学ぶためにきたのかもって。

っていうことは、私にも「標準のロジック」があったんでしょうね。

 

それに「気づく」ために、日本を選んだ。

北欧を選んでいたら「当たり前」だから、問題視もしなかったかも、ですから。

 

、、、とまとまりない文章ですが、、、、