かとうゆうです。
今日は「過去も、今も、未来もすべて”価値ある体験”」という話です。
価値ある体験。
何か成功と定義したこと。
これは簡単です。
ここで大事なことは
・後悔
・恥
・怒り、憎しみ
これらも全部「価値ある体験」だということです。
単なる気休めとか
心の持ち方とか。
そういう、ふわっとしたものではないです。
わりと、そういうのって「一時的」なので。
しばらくすると、
「あーあー」になりやすい。
そうではなくて、
全快
完璧
全快、完璧で「価値ある体験」だということです。
私は、いろいろ後悔とか恥とかたくさんありました。
もうここでは書けない、書きたくない、もう思い出したくもないことも。
わりと
怒り
憎しみ
こうした「自ら発信したネガティブ」は
「転換」しやすいです。
何か本でも、人の言葉でも
「あー、そうか、そこの理解、咀嚼が不足してたなー」って。
わりと「転換」しやすい。
やっかいなのは
後悔
恥
「自分がいけてなさすぎ、自分の判断がいけてなさすぎ」
このいう定義をしたときは
「心の持ち方を変えましょう」といっても
「学びをしましょう」といっても
「そうはいっても・・・」になります。
全快・完璧に「価値ある」と定義するために
大事な、大事なポイントは
「すべて必要だから起こっている」
「すべて必然だから起こっている」
と、思い切ることです。
後悔とか。
「あーあー。あのときあんなことしなければ・・・」
なんて「違う選択」を考えますが、
そうではなくて
「必要・必然の体験」だったということです。
これは本当にそうで。
すべての世界は、自らが作り出しています。
すべて、です。
電車で隣に座った人も。
すべて。
なので「後悔と定義した出来事」は
あなたが「必要」だからつくりだしたもの、です。
決して、他の、他物との因果ではなく、
あなた。
そう思い切ってみてください。
まず「これは必要・必然な体験」
そうすると、風景が少しずつ変わってきます。
「うーん、、、あれはどう考えても、あいつがいけてないから、あーなったし、それに対して対応した自分がいけてなかった、、、、、
あ。でも。
必然だってことは、”あいつ”と遭遇することも必然か。
”あいつ”は、私の”なんだろう?”
私の心?
いやいや。私はそんなひどいやつじゃない。
あ。
そういえば、このことがあったから、3年後のあのとき、”絶対そんなことはしないぞ!”と思って、ふたを開けたら、”そんなこと”にはならないことがあったな。」
一例です。
あくまで。
でも
必然。
必要。
そう思いきると、
景色が変わります。
”あいつ”や”あのこと”が
”自分”になるからです。
そして、だんだんいろいろ気づいていく
あー、まぁ、そのときはわからなかったけど、今にして思えば・・・とか。
こういう”波”に乗ってくると、
不思議と
”あいつ””あのこと”自体が、小さくなっていきます。
気にならなくなったり、
後悔として思い出さなかったり、
思い出しても、わりと”中立な風景”としてみえたり
これは不思議なんですが、本当にそうなります。
実際、私も、これで数多くの「いけてない」を、縮小・消滅させていきました。
これ身近なところでも応用できます。
例えば。
コンビニのレジ待ち。
高齢の人が、現金を数え始めて、もたもた。
わりとわりますよね?
店員はもうひとりいるのに、レジ応援しない。
「ちょっと!いいですか!」なんて声を荒げたくなるかも、ですが。
必然。
必要。
と思い切ってみてください。
「もたもた」・・・・あ、あの仕事、やりたくないとかいって、ずっと後回しにしてた!とか。
「応援に入らない」・・・あ、そうか。職場のあの人。あの人がいけてないんじゃなくて、私がちゃんと教えてないや!とか。
全然思ってもみなかった「気づき」を得られます。
もうこうなってしまえば「レジ待ちもたもた」なんて、全くネガティブでも、イライラすることでもないですよね?
そうするとあなたはこういうかもしれません。
「あ・・・よかったら、もうひとつレジ開けれます?・・・ちょっと急いでて・・・」
と、丁寧に、普通に、いうかもしれません。
1分前までは
「(ちょっと!かんべんしてよ!)あ。レジ、いいですか!(怒)」なんていおうとしていた自分が、
あっという間に変わった瞬間です。